2007年12月16日

XTC 続

 drift_glass さんがご指摘下さったように、先の文は、3月20日付のものでした。それも、表明文ではなく、談話です。冷静に受けなければと自戒しています。
 Idea フォーラムの表紙ページの一覧では、12月8日の日付でしたので。
 3月にこのパートリッジの文を読んだかどうか、判然とは覚えていません。12月のムールディングの談話の後は、暫く何もなく、3月頃から5月まで、パートリッジの「ランダム」という質問への返答がありました。その時に、一度だけ、昨年の騒動への言及がありましたけれども、その時には、ムールディングの談話を全く踏まえていない、という印象がありました。私は、パートリッジはまだ動揺しているのだと感じていました。その時の、談話か知ら。
 ですけれど、私の動揺は大きく、直ぐに静まりそうもありません。
posted by ノエルかえる at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月11日

XTC

 Idea のフォーラムに、久方ぶりに、パートリッジの投稿がありました。その最後の部分は、以下のものです。

「Truth is I am at the biggest crossroads in my life,careerwise,creativitywise and healthwise,and I need to take a giant step back to evaluate where I'm going to go next.I'm in a troubled place,lets just leave it at that.So thanks for the tears and laughter,delight and disgust,uplift and annoyance.I guess it'll be quiet for a while round here with Colin not bothering to post,or even bothering to run the XTC empire come to that.He leaves Steve and I to do that for him{typical lazy bloody Leo}.
So,see you in a while when I've figured out if I've any dreams left to reach for,or even how to learn to dream again.Tough getting old aint it? AP

 私は、この文を上手く読み取ることが出来ません。けれども、彼が、人生の重大な岐路に立ち、一度振り返って自らの意味を確かめなければならなかった、と言っているところからは、ニュアンスとして、XTC は終わってしまったと言う発言に感じます。文章の最後の部分に、希望があるようにも思うのですけれど。

 私は、パートリッジのXTC 以外の作品、バッドやブレッグバットとの共作、またはモンスタランス、どれも好きですし、評価しています。けれども、それらも、XTC と言う前提があった上でなのです。XTC がなくなった時にも、パートリッジを聴くかどうかは分かりません。

 私にとって、XTC は意味でした。XTC を聴くことが、私が生きていると言うことでした。XTC は、常に現在でした。XTC を聴くことが、私が世界に顕ち現れると言うことでした。XTC の新作を期待出来ない最近にあっても、XTC は現在していて、その音楽の想像力は実を結ばないとしても、作用を続けていると、私は感じていました。未生であることも、現在であるからです。未生のまま終わるとしても、いつの日にか顕現する新しい作品が現在していると。
 ですから、過去の作品を聴いている時には、その現在の作品の未生の種を聴いていたのです。
 XTC がなくなってしまえば、この未生としての現在も消えてしまいます。過去の作品も、未生の種ではなく、一個の作品で、過去のものとなってしまいます。

 XTC の意思は、パートリッジにあります。彼が、終わったと決めれば終わりです。XTC は、彼にとって経歴の一つですから、また別の経歴が始まるのでしょう。
 けれども、XTC を聴く私にとって、それは楽しみの一つではなく、経歴でもありません。XTC を聴くことが、私を意味していました。
 私は、社会への働きもなく、付与出来る知識も経験もありません。世間からは軽蔑されるだけの者です。社会に通用して生きていける程の価値のない者です。それでも、構いませんでした。XTC を聴くと言う、意味がありましたから。
 XTC が、もうないのならば、私には何も意味もありません。
 これ以上、生きていくべきでもありません。
posted by ノエルかえる at 22:01| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

『宇宙の柳、たましいの下着』

 「XTC」に関する記事のあるブログをブラウズしていて、直枝政広 氏の著書『宇宙の柳、たましいの下着』という書籍を知りました。この著書には、「XTCになりたいと願って育ってきたおれでさえ、悲しいかな今やXTCの近作は前向きに聴けなくなってしまった。」と言う文章がある、と紹介されているブログの記事がありましたので。この著者は、氏が選んだ音盤のレビュー集とのことです。

こちらのブログ記事で読みました。アンディ・パートリッジになりたかった!

 私は、直枝政広 氏がリーダーであるバンド、カーネーションを知りませんでした。そこで、iTunes store を見るといくつかのアルバムがありましたので、試聴してみました。iTunesの試聴は20秒と短いのですが、store 内にあったどの歌も、その20秒内では、私の耳を止めるものはありませんでした。もちろん、試聴部分以外に素晴らしいところがあったかも知れません。聴いた限りでは、興味の外のものでした。ですので、私は、直枝政広 氏及び、カーネーションには、何らの批評を持てません。
 氏の著書『宇宙の柳、たましいの下着』にも、関心が持てません。ですので、「悲しいかな今やXTCの近作は前向きに聴けなくなってしまった。」と言う言葉にも、思うところは何もありません。

 私は、この著書よりも、北里 義之 氏の、近々に出版予定の『サウンド・アナトミア - 高柳昌行の探究と音響の起源 (予定題名)』の方に関心があります。青土社から出版の予定。
 この著書に含められるかどうかは分からないのですけれど、『ジャズ批評 62号』に書かれたデジタル・ヴォイスに関する論考の一部がweb上にありましたので、無断引用なのですが、XTC の音楽にも関わるかとも思いますので、備忘します。

「 デジタル・シンセサイザーやサンプリング・マシーン等の情報楽器が音楽にもたらした最大の変化は,ヴォイスという言葉ですべての音響を覆ってしまったことにある。要素に分解した波形を再構成して自由に新しい音響を作ったり,それをカードに登録(メモリーというが,これは記憶とは別のものだ)して,いつでも何処でも変化しない同一の音を呼び出したり,“声” とか “記憶” とかいった身体的な比喩に訴えて,それがまだ楽器であることを納得させようとするわけだが,われわれが実際に受け取る音は,これまでの楽器とかけ離れて異質のものである。
 そのとりとめのない浮遊感を一言で要約するなら,記憶の不在ということになるのだろう。生物学における遺伝子の発見のように,要素の組み合わせによって作られた音は,われわれのいかなる身体的記憶も呼び起こさない。音はわれわれが音楽に持っているイメージをはずれ,ときに不快だったり,かえって爽快だったりする。何も思い出す必要のないこと,過去の記憶(それは必ず共同体的なものだ)に縛られずにすむこと,そこに生まれる解放感は,新しい自由の形なのだろうか,悪しきコスモポリタニズムを呼び寄せるだけなのだろうか。ただ,西独のクラフトヴェルクや坂本龍一らの YMO 等のテクノ・ポップが,近未来的なイメージ作りのためにデジタル的なるものを利用し,音楽のなかに再び回収してしまうやり方は,デジタルの本質をかえって隠蔽するようなことになっていたと思う。均質化されたファッションや,舞台上での無表情な身振りも,デジタル的イメージを演技・演出するものであって,デジタルそれ自体を剥き出しに露出させるようなものではなかった。この場合の「ポップ」も,ジョン・ゾーンの身体性を “ポップな” と形容するのと同じ意味で,テクノロジーが可能にした身体の解放状態を言うのでなくてはならないが,現実的な成り行きは,情報楽器による新種の大衆音楽というにとどまっている。
 こうした結果を招くにはそれなりの理由がある。端的に言うなら,デジタル的なものの重視が,アナログ的なものの軽視によって行なわれたからだろう。その揺り返しが,後年坂本龍一をオーケストラに向かわせることになったと見るのは,深読みに過ぎるだろうか。彼の場合,よくあるウィズ・ストリングスものと同列には考えられないように思うのだが。デジタルなものを異化し突出させるのは,まさにアナログなものだということ,ジョン・ゾーンが契機にしてきたセロニアス・モンク,近藤等則,三上寛的なるものとの対話を欠いていることが,デジタルをイメージとして引き寄せる結果になった。 」


posted by ノエルかえる at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月02日

Dark

 『Go 2 』を聴きました、朝から。このアルバムの持つ「黒い」色感を思いながらです。
 聴きながら、思ったことを書いてみます。
 XTC を初めて聞いたとき、それはアルバム『White Music』ですけれど、私の受けた印象は、新しいピンク・フロイドの登場と言うものでした。『White Music』は、シド・バレットのピンク・フロイドを爆発的にしたような感じに思えました。バレットのピンク・フロイドがルドンのようなものならば、パートリッジのXTC は岡本太郎のようでした。けれども、通じる感覚は感じました。
 今では、ピンク・フロイドのいくつかの面から、新しい才能が生まれたのだと、当時を思い返すことが出来ます。一つは、ケイト・ブッシュ。彼女のデビュー音盤は、デイヴィッド・ギルモアがレコードの制作を担当しています。ピンク・フロイドの一つの側面を、そのまま継承して、彼女自身の経歴を始めたのでしょう。一方のXTC は、ピンク・フロイドの始点に戻り、そこから、全く違う方向へと爆発するように出発したのだ、と思えます。
 『White Music』は、ピンク・フロイドの『The Piper at the Gates of Dawn』に当たるでしょう。その後の彼らの経歴も、ピンク・フロイドに当てられるのではないかと思いました。けれども、それは、かれらの「キュビズム時代」だけですけれど。(それにまた、一つのバンドを、他のまた一つのバンドに準えるのも、よいことだとは思わないのですけれど)
 『Go 2』は『The Dark Side of the Moon』。
 『Drums and Wires』は『The Wall』。
 これは、どちらも、アルバムが持つ肌合いの感触から比較してみたものです。けれども、並べてみると、アルバムの持つテーマ性も合っているように思われます。XTC は、性急に駆け抜けたのか知ら。

 もちろん、二つの違うバンドであるのですから、それも、方向性は反対を向いているのではないかと思われるものなのですから、並べてみると、その違いも際立ちます。
 重厚で、真摯で内省的なピンク・フロイドに対して、XTC は、性急で諧謔的で破裂しています。「The Great Gig in the Sky」と「Red」を対比すれば、明白でしょう。
 それでも、『Go 2』と『The Dark Side of the Moon』からは、同じ感触を受けるのです。「黒い」感触です。ピンク・フロイドは、巨大な重力で全てのものを呑みこんでしまった結果の「黒」を見せています。XTC は、破裂した花火が、非常な速さで火の粉を散らしてしまった後の真っ暗な空虚な空を見せています。その二つの違う「黒」は、私に、同じように、音楽を思索的に聴くことを誘っています。
posted by ノエルかえる at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | Go 2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする