2010年12月26日

デイブ・グレゴリー のノート

 『スカイラーキング』に関する、『 The Pulmyears Music Blog 』に載せられた、デイブ・グレゴリーのノートを訳しました。

Exclusive Skylarking Bonus Notes with XTC’s Dave Gregory


 私達は合衆国へはヴァージン・エアラインに乗って行ったのです。おそらく、当時最も安価な航空券だったのでしょうね。ニュージャージー州のニューアークに1986年の4月6日に到着しました。私達のギターを入れた二箱の梱包箱は私達より前に別に送られていたのです。私分の二個の飛行用ケースには次の様な物を入れていました。マーティン D 35 アコーステイック。ウォル U。エピックフォーン・ニューポート・ベース。リッケンバッカー 12 ストリング。スクエア・テレキャスター。ギブソン ES-335 。エピフォーン・リヴェラ・ドゥワイト。1966年製 ストラスキャスター。後に、サンフランシスコで、1953 年製 レス・ポールを購入しました。ドゥワイトとストラスキャスターは使いませんでしたけど、そのほかのすべてのギターは、このアルバムで使いました。トッドは、彼が所有している、黒いオヴァション 12 ストリングス・エレクトロニクス・アコーステイック・ギターを使う様に、熱心に薦めてくれました。それは、いくつかの曲に相応しかったのです。[ 後に、レコーディングの最中なのですが、 ] 「 Earn Enough for us 」の旋律で問題が発生したのです。私達は、リッケンバッカーを使って、トム・ショルツのロックマン・アンプを使っていました。私は覚えているのですが、全員がコントロールルームに座って、私が何とか曲のテーマに合う変奏を見出そうと試行錯誤している間、待っていたのです。トッドは、最終の連のところに、導入部を再現すればどうかと、助言してくれました。ですので、最後の三小節で、四音のG5s コードを弾いたのです。それから、トッドは、それをダブルトラックにしました。後から、彼はピアノを使って、それを強めているのかもしれません。それは、彼がギターと同様に音楽全般によく通じていると言うことの証左です。ほとんどの部分は、バンドのメンバーで、散々議論し尽くしたものだったのですから。また、それは、彼のプロデューサーとしての力量を示すものでもありました。必要となるまで、何の干渉もしないと言う仕方、ものごとが捗らなくなった時のために常に何かをこっそり持っていると言う仕方なのです。
 税関を済ませて、荷物を一纏めにして、私達は到着口に集まっていました。連絡係を探していました。誰も現れませんでした! 素晴らしい − それは、何か、冒険の様なものへの出発だったのです。 − 私達は、連絡用の電話番号さえ知らなかったのです。それに、お金も持っていませんでした。家から持って来た僅かばかりの現金だけです。クレジットカードとATM は、今日の様に生活の中で確立されていなかったのです。40分ばかり立った後、ブロンドの慌てた様な女性が私達の所へ駈けて来ました。大変に恐縮して、遅れたのは、悪天候と交通渋滞のためだと説明したのです。女性の名前は、メアリー・ルウ・アーノルドでした。彼女は、長年、トッドの個人秘書を務めている女性でした。ニューヨーク北部から4時間ほどもかかったのだとのことでした、4時間も! 私達は疲れたまま、キャンピング・カーに乗り込みました。メアリー・ルウは、帰りの長い行程に発車したのでした。走っている間ずっと、激しい雨が降っていました。私たち全員とても疲れてはいたのですが、上機嫌でした。会話は、滞りもせずに続きました。それは、私達三人の運転手に抱いた印象が、田舎の英国人の様なものだと言うことと、彼のラブレー風のユーモアのためでした。ラブレー風ユーモアに関しては、私は想像が出来ないのですが。長いドライブの後ようやく高速道路を降りて、ウッドストックへ続く暗い田舎の脇道へと、冒険に入ったのです。雨は弱まることなく降り続いていました。それは、何か、古い恐怖映画のオープニングの場面に私達がいる様に感じさせたのでした。雷が鳴って、雷光が裂けて、そのようなことがたくさん!
 トッドの所有地は、森の高い所にありました。ニューヨーク州のレイク・ヒルを通るミンク・ホウロウ・ロードの突き当たりになる、キャッツキル山地の麓にその森はありました。その地域に私はとても感動したのです。ウエスト・サウジェチーズの近くなのですから。そこで、ザ・バンドは、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を録音したのです。それにまた、1966年に、ボブ・ディランがよく知られているオートバイ事故を起こした所でもあるのです。静かでした。たぶん、静かでした。考えられる限り完璧な長閑な田園風景なのでした。トッド邸の近くには、数件の家がありました。けれども、私達は、隣人を見ることがありませんでした。ゲストハウスは丸太組みでした。建物は白色に塗られていました。その中の窓枠は空色でした。道に面した土手の上に建てられていました。地下室もありました。それに庭と地面と同じ高さのバルコニーも付いていました。バルコニーには大きな揺り椅子もありました。正に『ビッグ・ピンク』の感じですよ、真正な田舎のアメリカ生活の感じです。私達は、自動車から転げ出て、ついに「我が家」に着いて喜んだのでした。私は、ベッドがある最初に目にした部屋に、スーツケースを投げ込みました。一方で、アンディとコリンは、一番いい部屋を求めて二階を探しまわったのでした。二人はいい部屋を見つけられませんでした。幸運にも、私は、主賓室を選んでいたのでした! 私は「無断居住者」の権利を手中にしたのでした、そして、そこに移り住みました。その部屋には、大きくて心地の良いベッドがありました。ベッドの側には、ハイーファイ・システムのラジオもありました。レコードプレイヤーのターンテーブルには、テスト盤・白紙レーベルのトッドの『 A Capella 』のLPが載っていました。[ 良識ある読者諸氏には、今や、お聞かせ出来ないことなのですが、私はそのレコードを取り上げて自宅へ持ち帰ったのです。 ] 翌朝、雨はきれいに上がっていました。私達は、新しい環境を探索に出掛けました。ゲストハウスの裏手は、約1エーカー半でしたけれど、森に取り巻かれていました。所有地の境は遠くにありました。端まで長いドライブをして、大きなモダンなバンガロー風の建物があるのを見つけました。それは、ラングレンの住居でした。外には、素晴らしい赤いキャディラック・エルドラドのオープンカーが停めてありました。駆け抜ける快感を待っているようでした。 [ 私はまったく分からないのですが。] バンガローとゲストハウスの半分ほどの所に、角に煙突のあるつや出しされた材木造りの大きな納屋の様な建物がありました。それがユートピア・スタジオだったのです!
 スタジオは開いていましたから、私達は中に入ったのです。様々な楽器とアンプが埃を被っていました。何故だか、忘れ去られているようでした。1968年製のヴォックス・スーパー、ビートルズのアンプです、印象的な外見で、とても素晴らしい音なのです。英国では、私達には手に入れられないものでした。それが、クロームのスタンドで壁に立てかけていたんです。グランドピアノが部屋の隅にありました。側には、扇踊りの踊り子( ヌード・ダンサー )が使う様な豪華な衝立てが立ててありました。それから、暖炉の炉胸にインドの楽器が何点か掛けてありました。シタールもありました。反対の角に埋もれていたのは、かつてもてはやされたチェンバレンのメロトロンでした。それは、私達の[ 持ってこなかった ] メロトロンの代わりちょうどいいだろうと約束されていたものでした。チェンバレンの向かいには棚で、箱が二つありました。中は、マルチ・トラックのマスターテープで、ほとんどは、トッド自身の作品のレコーディングでした。私は、その作品の幾つかに現実に「触れる」なんて、ほとんど信じることさえ出来ませんでした! コントロールルームへ登る木製の階段の後の壁には、『 ラント 』のバックジャケットを飾っている「魔法使い」の戯画の絵が拡大されて描かれていました。
 しかしながら、私を一番驚かせたものは、他でもなく、コントロールルームへ入った時に目にした、エリック・クラプトンの世界に広く知られているギブソンのSG ギターなのです。ギターに描かれた Fool のアートワークも完璧に再現されていました。それがスタンドに立ててあったのです。それは、その時ではまだ、トッドが主に使うギターなのでした。彼の作品の中で、そのギターは、永久に特別な位置を占めているのです! 一人のギタリストとしての私に、クラプトンの演奏は、クリームでの演奏以来ずっと、最も大きな影響を与え続けているのです。実際にクラプトンが使った楽器を自分の目前に見ると言うことは、青天の霹靂でした。思いもかけなかったのです。私は、とうとう、ロックの天国に手が届いたのだと、強く思ったのです。私の音楽的夢と憧憬がすべて現実のものになったのでした。
 一日か二日遅れてトッドは遣って来ました。そしてすぐに仕事を始めたのです。リハーサル? 私は、ユートピアでは、リハーサルをしたとは覚えていません。ですけれど、母国を離れる前に、私達の小屋、私のリビングルームで済ましてはいました。トッドはとても迅速に、私達には、より多くの設備が必要だと判断して、ニューヨーク市への移動が手配されました。南へ戻る長いドライブは、トッドをもう少し知る機会を私達にもたらしたのでした。そして、難しい仕事に取りかかることに、私達は期待をしていたのです。私達は、ニューヨークからプロフィット X シンセサイザー[ ダブルマニュアル・プロフィット V に似ていました。 ] 、メキシコの小さなウクレレタイプの楽器[ tiples : スペイン語でソプラノ の意味 / Tiple : Wikipedia ] ( ビウエラでしょうか? ) を二つ、それに、大きなパーカッションの一式を持ち帰りました。
 私は、何かの曲で、心底からどうしても、クラプトンの SG を弾いてみたかったのです。トッドは、この歌 ( 「 That's Really Super, Supergirl 」グレゴリーは、really really wanted と言ってます、洒落ですね。 ) のソロで、私が弾くために、そのギターを私に貸すことを承諾してくれたのです。勿論、音色は、エリックのものと言うより、トッドのものになっていました。でも、OK なのでした! 青銅が巻かれた弦が張られていました。それを外しても良いとトッドは言ってくれました。自室で弦を替えている間、ピック・ガードとコントロール・ラウント・カバーを外す機会を私は得たのです。それで、アートワークをもっと詳しく見ることが出来ました。人工の桜色の漆の上に、直接に絵が描かれているのが分かって、驚きました。桜色の漆は、ピックカバーの下に、まだ見えていたのです。幾つかの点から、このギターは、おそらく垂直に落とされたことがあるのだと思いました。コントロールの下の胴材にかなりの割れがありました。ですのでそう思うのです。その瑕からは、胴の角をすっかり壊すことも有り得たのではないかとも思います。でも、カバープレートを壊しただけで、胴は一つに保たれていたのです!
 私達はソロ部分をコントロール・ルームで録音しました。私は、ネック・ピック・アップを使い、トム・ショルツのロックマン・アンプを使っていました。そのどの装置も、トッドがユートピア・サウンドの独特な効果を生み出すために使っていたものです。その SG ギターは、とても演奏し易い様に私は感じました。ネック部分にも装飾画が描かれて絵具が塗られていたのにも拘わらず、気持ちのいい表面でした。 [ クラプトンは、直ぐに、ネックから絵具を取り除いていたのですが、トッドはそれを元に戻していました。 ] アルバムが完成して数ヶ月後、私は自宅でユートピアの作品『 Ra 』を聴いていたのです。「 Magic Dragon Theatre 」の馴染んだコードに入る中間部のロジャー・パウエルのトランペットの上昇する旋律が耳に入ったとき、私は、その、同じ五音で構成されるパウエルの旋律を、私のソロ部分に拝借していたことに、気が付いたのです! トッドは、それが注意を払うほどのものだとは看做していなかったのです…。
 このアルバムには、ギターのソロは、たくさんはありません。「 Dear God 」の張り詰めた様なギターのアルペジオは、アルバムのセッションの最後に組まれて、録音されたものなのですが、私は、このアルペジオを最も誇らしく思うのです。サンフランシスコを去る数日前に当地で購入した、53年製の金色のレスポール・ギターを使ったのです。私は、後になって、「 Extrovert 」でも使いました。 [ 「 Extrovert 」は、最後のレコーディングで、トッドの不在時に、クリス・アンデルセンとジョージ・コウワンによって録音されたものです。 ]
 「 Sacrificial Bonfire 」のナイロン弦のギターは、最初には問題がありました。指で弾く奏法だと、私は、十分な強さを出せなかったのです。すると、トッドは、ダンロップ社のナイロンのピックを照明用のテープで巻いて、「これで弾いて見ろ」と渡してくれました。そして、その方法は効果があったのです! 私はそのピックをまだ何処かに仕舞っています。それを他の何にも使わずにいるのです。「 Grass 」の時です。誰のギターだったか、覚えていないのですが、もしかしたら、コリンのギターかもしれません、確かではないのですが。「 Grass 」の不安定な主旋律は、エピフォン社のリヴィエラを使い、そこにあったビートルズのアンプ、調子の悪いヴォックスを使ったのです。アンディは、「 Meeting Place 」で主立った旋律をエピフォンで弾きました。彼は、フレットを3に上げると言う、変則的なチュウニングを使いました。どう言う理由でか、G 弦は、他の弦より大きな音が出て言いました。ですので、トッドは、ネックのピックアップからポールピースを外したのです。それで、問題は解決しました。
 私は以前にも言ったことがありますけれど、再び言います。トッド・ラングレンは、XTC の行末を担保したのです。彼は、雇われただけのことは、様々な障害にも拘らず、余すことなくやり尽くしたのです。アメリカでのヒットを私達にもたらしたのですから。「 Dear God 」をアンディは、「 Another Satellite 」を収録するためにアルバムから外していました。ですが、ゲフィン・レコード社は、「 Dear God 」のDJ 用に配られるプロモーションEP を作ったのです。そして、それは、潮目を変えるヒットとなったのです。突然、XTC に寄せる関心の高まりが波の様に起こったのです。どのアルバムに「 Dear God 」は入っているのか? 直ぐさま、当然、ゲフィン社は、慌てふためいて、「 Mermaid Smile 」を外して、「 Dear God 」を入れたアルバムを再版したのでした。そうして、「 Dear God 」をシングルとして、また、ビデオを創ることが決定されたのです。ビデオは、MTV で何度も繰り返されて楽しまれるばかりでなく、グラミー賞にの候補にもなりました。 [ グラミー賞でした? MTV 賞でした? ] 自分たち自身の作品に対して、作家が常に最善の判定者ではないことが最終的に証明されてしまい、関係諸部署の意思決定者は、気まずい思いをしたのです。





Dave Gregory







2012年7月6日訂正:

Gibson SG guitar, complete with its restored Fool artwork,
の部分、Fool は、オランダのデザイン集団でした。サイケデリックなデザインをするグループ。

ギターに描かれた可笑しなアートワークも完璧に再現されていました。

Fool のアートワーク
posted by ノエルかえる at 10:25| Comment(4) | TrackBack(0) | Skylarking | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月25日

Down and Butter Sun Field Magic

 新『スカイラーキング』に載せられているパートリッジの手記、全文読みました。

 『 Down and Butter Sun Field Magic 』と言う仮題は、私は始めて聞きました。また、パートリッジのラングレンの『 Deface The Music 』への評価も伺えます。

 キム・フォスカト さんと言う女性の件は、ムールディングの「 Vanishing Gir 」を連想させました。

 ( ) 内は、私が加えた説明です。



トロトロの太陽が野原に降りて来て見せる魔法


 どんな父母だって、君にこう言うだろうと思うよ。大抵の誕生は、目一杯苦しんで、その苦しみに見合った報いがある出来事なんだ、って。引っ張ったり、押し出したり、汗を流して、大声を上げたり、あるいは、火ばさみを用いたりしての、アルバム『スカイラーキング』の分娩も例外ではなかったんだ。
 出来るものなら想像してご覧よ。1977年以来、僕らが契約を継続していたヴァージン社は、粗っぽい布を来たヒッピーで満員の彼らの会社の中で、僕らの82年のアルバム『イングリッシュ・セツルメント』に、百万分の一と言う僅かばかりの血の臭いを嗅ぎ付けていたんだ。それに続くニ枚のアルバム『ママー』『ビッグ・エクスプレス』 ( デュークはしばらく置いておくとして ) では、ただ、彼らは僕らをそれまでよりも駄目にしただけだったけどね。実際には、陸から完全に離れて冒険に出てたんだけどね。今では、その両方のアルバムとも、いい出来だとぼくは思うんだけどね。だけど、その二枚は、ふっくら頭で肩パッドのジョーにはピンと来なかったし、全英で5位になった『セトルメント』の大反響とは反対に、それぞれ3万そこそこで、からっきし売れなかったんだ。で、ヴァージンの立派な金庫の裏地にされたわけ。カァー・チャン ( レジスターの鳴る音 )、ありがとう! それで、彼らは、彼らの大理石のような黒い複眼を巨大な合衆国市場へ向けたんだ。そうして、僕らには拒否出来ない提案を出して来たんだ。
 レコード会社は、僕らをアメリカ人に売りたがっていたんだ。あそこには大金があるからね。それで、連中は、僕らはアメリカ人にプロデュースされるべきだと言う考えをひり出したのさ。XTC 、なんてもっともイギリス的なバンドなのに、その奥底から、埋もれた星々や極細の石理を見つけ出すなんて、誰がするんだい?ともかく、僕らが売れなければ、会社は僕らをレーベルから放り出すだけなのだから。当時、そんな幾つかの理由で、僕らはその提案に恐怖感で一杯だったのではないかな??? 僕は思うんだけどね、酔っぱらってもね、自分の意志をしっかり持って、威厳のあるままに、バーを後にした方が、無作法に長居し続けて、襟首でもって、吊るし上げられるより、いいだろう。それで、僕らは同意したんだ。池 ( 大西洋 ) を越えて送られた、ほとんど1ダースばかりのリストを、僕は受け取ったんだ。その誰もが、そろそろ消えようとしているお偉方に思えたよ。問題は、その誰も僕は聴いたことが無かった言うこと。それで、僕は、遠回しに言って、他の案をヴァージンに尋ねたんだ。二名のリストが来たよ。それで、本当の所、一番最後が、トッド・ラングレンだったんだ。さて、僕は彼を知っていた。それに、彼の制作のアルバムを僕は持っていたんだ。それは、僕がある時期、僕のヒーローだと思っていた、ニューヨーク・ドールズのアルバムで、トッドはそれをプロデュースしていたんだ。それで、偶々、デイブ・グレゴリーに、候補になっているのはトッド・ラングレンだって、言ってしまったんだ。彼は、熱心に突っつき出したんだ。( 彼はトッドの大大ファンだった。 ) そんなわけで、彼が僕らのプロデューサーになったんだ。
 何より皮肉なことだったのは、もっと英国好きの人物を僕らは選べることが出来なかったと言うことだよ。ビートルズのすべての虜になっていると言う人物、つまり、お伽噺の四人に敬意を表したアルバム『 Deface The Music 』などは作りもしなかったと言う人物を選ばなかったと言うこと。つまり、僕らの中に隠れたアンクル・サム ( アメリカ人 ) を掘り出そうとするのではなく、直ぐさまに、僕らのユニオン・ジャックの胴着のジョン・ブル ( イギリス人 ) 牛皮に磨きをかけ始めてくれて、それを面白がるような誰か、そんな人物を選ばなかった、と言うことが何よりの皮肉なことだったんだ。とにもかくにも、僕らは、英国を引き払って、ニュー・ヨーク北部のトッドのレコーディング工房に行ったと言うわけなんだ。だけれど、旅の挙句、森の中の彼のスタジオに着いた時には、失望の津波が僕を呑み込んだことを認めないわけにはいかないね。僕らが、それまで、英国の最高のスタジオで働いて生きた経験から期待しいた様な、僕の夢の最高水準の工房などではなかったんだ。とてもショックだった。と言うより、正確に言えば、ショックだった!
 僕らは、最初の一週間をグリズリー・アダムズ ( 19世紀の有名なアメリカのハンター ) の遊び場で、僕らだけでリハーサルをして過ごしたんだ。トッドは、片付けないといけない仕事を終えるまでいなかったんだ。中二階にあるコントロール室の下の半円の中で、僕らは、ドラマーなしで、自分達が出来る最善の状態に、僕らの一群の歌に磨きをかけていたんだ。トッドの考えと言うのは、テープの空きの容量をそのまま置いておくことで、概略が示されていたんだ。そして、彼が事前に考え出していた順に従って歌を演奏していくことで、アルバムが完成される、と言うものだった。テープには、何の編集も無かったんだ。次のトラックのために、僕らがギターを降ろす時には、響きを止めるためにギターの弦を指で押さえたんだ。例えば、「 Summer's Cauldron 」から「 Grass 」に入る所だよ。リスナーが聴いているのは、演奏の順そのままなんだ。一日に一つの歌だった。それが続いたんだ。それから、奇妙な事に、あとからドラムズを加えたんだ。ドラムズは、トッドの親友のアンプレェル・プレイリー・プリンスの所なので、サンフランシスコに小旅行だったんだ。
 僕たちは普段、たくさんの曲を全部録音して、それから最高のものに磨き上げるものを選んでいたんだけれど、それは、アルバムのセッションでは一般的なものだと、誰もが分かってくれると思うんだ。スタジオと言う竃の中で、僕らの愛と手入れで、何曲かは脹れ上がり、ねじりパンに成っていくんだ。でも、何曲かは検査にも到らないままに、萎んでしまうんだ。トッドは、僕らが彼に送っていたカセットのデモ全部を切り刻んでいたんだ。そして、アルバム全体のデモを作っていた。あちこちの不出来のヴァース部分を切り落として、彼が贅肉だと見なした部分をきれいに削ぎ落とし、その上で、素早く、アルバム全体の締め枠を作っていたんだ。それは、僕らが始めて音楽的ロード・マップに則って仕事をすると言う経験だった。自分たちのアルバムを定められた順序で構成させると言うことを、始めて知ったんだ。トッドの計画と言うのは、彼が用意した「環」の中に歌を収めると言うものだった。その環とは、ある夏の終日であって、それは、ある生涯、誕生から死亡まで、の比喩であったんだ。でも待ってくれ! その時、僕らはコンセプト・アルバムを創ろうとしていたのかい? 遣り過ぎだよ! トッドは、アルバムを『 Day Passes 』と名付けるように提案までしたんだ。そして、二枚の鉄道切符をフロント・カバーにすべきだとも言ったんだ。 〔 なんてこと! 〕 僕の頭の中には、『 Down and Butter Sun Field Magic 』と言う題があったんだよ。『 Skylarking 』と言う題に落ち着くまでは、その題名は、僕の頭の中にずっとあったんだ。
 当時、トッドは年季の入った経験豊かなプロデューサーで、アーティストには先行きの不安をほとんど抱かせることなく作業を進められるシステムを持っていたんだ。フォード自動車の生産ラインの類いだよ。ドラムズには、これこれの日にちが要る、ベースにはこれこれの時間、ヴォーカルはこの日にちから始めてこの日にちに終える、等々、と言うふうに。普通だと、この方法は上手く行くんだろうと思うんだ。だけど、僕は、自分のレコーディングをしているのに、彼の後に座ってはいられないと言う人間なんだ。それらの歌は、ほとんど僕の子供と同然なんだ。医者と言うのは、おチビさん [ tad ( ちび )とTodd の洒落 ]であるべきなんだ。そして、僕を開腹して歌を取り出す際には、慎重であるべきなんだよ。実際、僕は黙っていろと言われたんだ。それに、ヴァージンからは、僕の精神状態に何の助けも出さないと言われたんだ。僕の怒りは、何度か、沸き立つことを許されなかったと言う訳なんだ。XTC の三人の間には、散発的に口論が起こったんだ。それまでは、僕らは、まったく、したことが無かったのに。ある夜などは、ゲストハウスの羽目板隔壁を閉めた部屋の中で、僕らは皆、怒りで爆発寸前だったんだ。コリンと僕は、よくある役立たずの既婚者で、自分で料理すると言うことは出来もしなかったんだ。一方で、デイブは、誇大妄想患者の様な微笑みを浮かべて、泡立て器で、自分だけに美味しそうなご馳走を作っていたんだ。それで、僕たちが嘆願しても、僕たち二人を賄ってくれることはなかったんだ。そんな訳で、僕ら二人は、15マイルほど先のウッドストックの町から、ぞっとする様な段ボールの様なピザで、凌がなければならなかったんだ。で結局、僕は体重が減ったよ。
 ゲストハウスの床の下から立ち登ってくる、前にいたバンドが毒を撒いて殺したネズミの息を詰まらせる様な臭いに、僕らは苦しまずにはいられなかったのだけど、それが、僕らの絶望感を更に増したんだ。それから、それだけでは、僕らはまだ十分に惨めではないと言うかのように、コリンと僕の二人は、その土地の泉の水を飲んでしまったために、激しい症状の尿路感染症に罹ってしまったんだ。〔 デイブは、紅茶を飲むために煮沸したお湯を使っていたから、その烈火の様な惨状からは逃れていたんだ。 〕 トッドの権柄ずくの策略のせいで、僕らはお互いに悪感情を溜め込んでいて、陰で非難し合っていたんだ。僕らは、深刻さを免れるために、礼を欠く様な馬鹿げたことをしたものなのだけれど、その時期にしたことで、僕が思い出せるのは一つだけなんだ。毎朝、トッドが丘の高い所にある彼の自宅から草の茂った斜面を歩いて降りて来る時に、僕らは『ザ・マンスターズ』( 1960年代にアメリカで放送されたテレビのコメディ ) のテーマを初めて、“先生”がドアを開けて入って来るまでに、曲が終わりになるかどうか、慌てて演ったんだよ、ヒヒヒヒッ!
 それは実際に必要からだったのだけれど、レコーディングのためのサン・フランシスコへのジェット機の一飛びは、楽しい休息だったんだ。そして、前述のプレイリー・プリンス、『 The kit 』の溌剌としたロバート・ミッチャム( アメリカの俳優。カリプソを歌う歌手でもある。  kit は映画の題名なのか役名なのか、歌か何か分かりません。)に会ったと言う訳なんだ。トッドは、僕らがチューブスのスタジオ、The Sound Holle を使えるように事前に調整していてくれたんだ。スタジオのあるそこは、ミッション地区にある荒廃した1920年代の工場街のおっかない一角だった。そこに、チューブスの面々は、ツアーに出ている間、歯車やプロペラを仕舞っていたんだ。旧式なレコーディング設備は、キム・フォスカトと言う名前の小柄な女性が手入れをしていた。彼女は、毎日、長い一日が終わると、20段の階段を元気に上って、壁の高い所にある四角い穴に消えていったものなんだ。そこで、彼女は、鳩のように眠っていたのかい!?!
 実際に使われたレコーディングのほとんどは、こちら西海岸で“発生・生育”したものだったと思うよ。ドラムズに、ミンゴ・ルイスが演奏した躍動的なパーカッション、それに、すべての弦楽と管楽器、本当に多種多彩な楽器、それらがここで、“採取”されたんだ。ほとんどのものは、トッドと僕が、互いの頭を押し退けながら創ったものなんだ。黙っていなければいけない、線から出てはいけないと、僕は感じていて、それが怒りになっていたから、僕はトッドを押し退ける様なことをしたんだ。もちろん、トッドがした編曲は、約4キロも先を進んでいるとは分かっていたんだ。それに、彼が仕事を仕上げる速さと言ったら、ウァー!、だよ。だけれどもね。僕の頭の中では、曲がどのように聴こえているか、トッドは僕と議論を仕掛けて来たものだった。例えば、「 The Man Who Should Around His Soul 」でのこと。僕は、この歌は、ビートニクを礎石にして、スバイ/ボンド映画/ジョン・バリーの作品の様な編曲を上に乗せたらいいんだけれど、と言ったんだ。すると、彼は出て行った。彼がいない間、僕らは、テレビで50年代のロビン・フード・シリーズの画質の悪い再放送を見て笑いながら、ビールを飲んで寛いでいたんだ。トッドは、自宅で仕事をしていたんだろうと思う。本当の文字通りの翌日、彼は僕らにフルスコアの譜面を手渡したんだ。譜面の編成は、管楽器、弦楽器、それにフルートだった。それを彼は徹夜してやり上げたんだ。小さなキーボードを使って、それも、鍵盤を一本指でしか弾けないと言う弾き方で、彼は編曲したんだ。それが完璧なものなんだよ、本当にね。彼は、その驚愕する音楽的芸当を「 Sacrificial Bonfire 」と「 Mermaid Smile 」で、もう一度見せたんだ。途中で、「 Dear God 」を読み込んで、きれいに仕上げもしたんだ。彼の編曲の技術は誰にも劣らないんだ。僕は知らなかったんだ、誰か知ってたのかい?
 セッションの最終期は、ウッドストックへ戻ってしたんだ。ヴォーカルの大部分と、端々の細部を完成するためだったんだ。“ゲストハウス”に戻ると、言い合いがまた始まったんだ。でも、切っ先は鈍らせていた。誰もが気を配った態度になっていたんだ。特に、コリンに関わることにはそうだった。サンフランシスコで、コリンは、実際、ベースのオーバーダブのことでの口論の後、バンドを去っていたんだ。その時に、彼は、解剖学的にはとても小さな僕の穴にベースギターを挿入させて欲しい、と嘆願したんだよ。自分自身に仕出しを作らなければならない/健康上の問題/独裁者トッド/気難しいアンディ/望郷/アルバム制作の過程/、それらが、彼を我慢出来なくさせてしまったんだ。有難いことに、トッドが、彼をレコーディング終了までバンドに留まる様に説得したんだ。詳しいことは、僕は聞いていない。だけれど、でも、完成間近になって、トッドはもう一発の爆弾を落としたんだよ。ミキシングに残ることは許されそうも無かったんだ。
 アァ! それは痛みに満ちたものだった。すべてのミキシング作業の後と言うのは、つまり、新生児が、血も体液も全部きれに拭き取られて、両親の好みに合わせた可愛らしい服を着せて、手渡さされるというものなんだ、そうだろう?  その場に立ち会えないなんて、僕には想像も出来ないことなんだ。けれど、トッドは強硬だった。僕らは立ち去る以外なかったんだ。だから、僕らはそうしたよ。仕事は終わったんだ。だけど、立ち去る前に、僕はミキシング予定覚え書きを作っておいたんだ。それに、僕は、もし実際に僕がミキシングに立ち会えていたらならば、言ったであろうことを何もかも書いておいたんだ。それが、僕の希望を実現させる一番可能性があることだったんだから。馬鹿げた計画だろうね。でも、トッドは、実際、ボードから幾つかの提案を取り上げたんだ。例えば、僕は、「 1000 Unbrellas 」に弦楽が欲しいと言ったんだけど。僕は、最後のコーラス部分の前に、水が渦を巻いて落ちる様な弦楽の音像が欲しいと言ったんだ。それで、僕は、排水孔に螺旋になって流れる水の絵を描いたんだ。彼は、本当に上手くそれを処理したんだよ。一般には、巻き上げ機で吊り上げなければ出来ない様な遣り難いケーキの上に鮮やかなサクランボを載せる様な手腕だと、ぼくは思うんだ。
 アルバムの最終ミックスを聴いたヴァージン社は愉快そうではなかったんだ。それは、アンディの言う所の所謂「難解さ」からの気分の昂りが取り払われたものだったんだ。それで、トッドは、もう一度、ミックスをやり直したんだ。でも、再度、レーベルとそれに僕たちから保留を付けられたんだよ。それで、何曲かが再度ミックスされたんだ。そして、「十分だ、これ以上のミックスはない」と言う覚え書きが付せられて戻って来た。取り敢えず我慢しろ! と。
 勿論、僕は怒りを感じていた。一年かそれよりもっと長い間、僕はアルバムを聞くことが出来なかったんだ。僕は、自分の中に、多すぎる憤りを抱えていたからなんだ。芸術的な面では、ヴァージン社のために身動きが取れないでいると言う思いがあったんだ。それが、「トッドは君を創り上げる前に君を壊すものなんだ」と言う、最高潮の場面を経験して、その思いの全部が、耐え切れない痛みになったんだ。本当に、正直に言って、一緒に仕事をするとしたら、トッドは一番し易い奴ではないんだ。スパークスやバッドフィンガー、その他、何ダースもの彼がプロデュースしたアーティストに聞いてご覧よ。考えて見て欲しいよ。僕は、天使ガブリエルではないんだよ。ところで、彼はいい仕事をしたのかな? いやぁ、まったく。彼は偉大な仕事をしたんだよ。今なら、僕でさえ、それが分かるんだ。
 有り難うトッド。時は悪漢全員をやっつけるんだ。


Andy Partridge
posted by ノエルかえる at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | Skylarking | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月12日

Colin's comment for new Skylarking

 新『 Skylarking 』に掲載されていた、ムールディングの新しい手記、訳しました。

 私には、ショックだったのは、彼がレコーディング中、実際に病気にまでなっていたと言うことです。それほどに、追いつめられていたのですね。

 希望に思える所は、最後の、レコーディングの冒険談をもう少し溜め込む、と言う所。と言うことは、レコードを創っていると言うことでは?


 拙訳です、文意が通らない所は、私の訳が間違っているのだと。



 当時の僕は、大人しい小心者だったんだけど、ウッドストックへの遠征とその後に僕らが苦しんだことについては、ほんの少ししか思い出せないんだ。そう、レコードに載せられる順序の通りにすべての歌を録音すると言う風変わりなトッドの要求についても。あれやこれやの奇異なことは、それが始まりだったんだ。僕らは、アルバムを15 IPS の速度のテープのリールに録音しなければならなかったんだ。そうするのは、節約のため? 「まったく、何百万もあるのに。」 ぼくは思ったんだ、ほんの少ししか、テープの蓄えがないんだって。僕は戸惑ったんだ。次の指示は、僕の譜面に沿って、ドラマーがしっかりしたドラムを入れる前に、ベースを録音すると言うことだったんだ。何もかもがちょっと変てこだったけど、幸運にも、僕らは、このことについては、彼の考えを変えられたんだ。だけれど、トッドが本当に僕に見せたものと言うのは、加えるものも減らすものもないファースト・テイクを決定することに関しての彼の哲学だったんだ。それは、セッションを、僕らがそれまでにして来たものよりも、推進力のあるものにしたんだ。その結果、その喧々諤々の長い夏は、少しばかり騒ぎが少なくなったんだ。人は、達成することが出来るようになる前に、苦しみの段階を通るべきではないと、ぼくは思っているんだ。つまり、エンジニアが通して見ること、あるいは、テイク・ワンを録ると言うのは、探求なんだ。僕が自宅で録音している際、時々何度も、この素晴らしい無意識の状態が働いて、未知の領域を知ることが出来る何かがあるように感じて、僕は嬉しくなるんだ。
 僕はトッドが特別な人間だと言うつもりはないんだ。それに、彼が自分の翼の下に囲っている若いアーティストに対して怒り易い人物だとも言わない。映画スターの場合には、俳優は、正しいテイクを撮るためには、多かれ少なかれ、監督に対して愛を抱くものだけれどね。トッドに関しては、それは有り得ないことなんだ。トッドの指示は最小限のもので、それは、口頭で行われるんだ。もし、レコーディングが行き詰まるようだったら、彼は、アーティストを早めに止めさせるんだ。だけど、アーティストが、自分が演奏した作品に誇りを求めているとしたら、そして、それが、上手くいったと感じているとしたら、誤った結果になる余地はない筈なんだ。例えば、ヒッチコックは、映画を撮っている時に、俳優からどのように演技したらいいかと訊かれたら、「君はプロフェッショナルだ、私もそうだ。自分の仕事だけをしよう。」と言ったものだそうなんだ。つまり、自分の本能で十分なんだよ。
 彼はかなり臆病な性格だった ( 僕はトッドのことを言っているんだよ ) 。大西部の町に乗り入れた銃使いのようにね、 ― 捉えどころがなくて、薄気味悪くて、謎めいていた ― 僕は、どう考えていいか分からなかったんだ。僕の世界、僕が理解出来る世界、と言うものは、もっと簡単なものなのだから。僕はただ、僕が高い価値があると思っているものに謙虚な信仰を持っているだけだったんだ。あのセッションの間中すっと、僕は、しっかりしようと頑張ったんだ。でも、何度か、気持ちが切れてしまったんだ。
 トッドに関しては、よくその風変わりなやり方が証言されていて、可笑しがらせる様なことがたくさん言われていると、僕は思っているんだけれど、でも、彼が秀でたアレンジャーだと言うことは否定のしようがないんだ。彼ほど音楽的に用に適った人物にあったことはないと思うんだ。彼は適任者だったんだ。自分達がしようとしていることが何だか分かっていると言う外部の人々の所に自分を持込むと言うのは、どれほど素晴らしいことだろうか、それに彼は、僕の小品を僕が考えても見なかった所へと運ぶことが出来たんだ。それは興奮させられるものだったんだ。僕はその多くが懐かしいんだ。ビートルズは、ジョージ・マーティンがいたことがどれだけ幸運だったか分かってないのでは? このレコーディング後、間もなく、アンディが、自分の作曲について、デモを厳格に守るように主張し始めるのを、僕たちは見たんだ。それは、とても残念なことだよ。と言うのは、自分の歌を他人の手に委ねて、僕たちがそれまで得ることが出来ていた、多くの素晴らしい驚きがなくなってしまうからなんだ。
 ウッドストックでは、僕らはリハーサルをしなかったんだ。英国でもしないままに来たんだけれど。「ちゃんとやってもいないのに、トッドは何を変えようとしているのか、僕らは分からないよ。」と、誰かが言ったんだ。それで、こんな風に事態は起こったんだ。 ― 僕らは偉大な男が指示をくれるのを待っていた。ちょうど、緊張した生徒が、校長先生がガウンを着て現れるのを待っているように。歌を演奏してトッドに聞かせた。何の検討もなく。それは、…「下書き」「ちょっとやってみよう」と言うだけのものだった。それから、僕たちは始めた。そして、嵐が起こった。 ― と言うことなんだ。
 僕は、「スーパー・ガール」について、いくつかの全然違う意見があったのを覚えているんだ。僕はいつものように、部屋の隅に行って、その成り行き全部に耐えていたんだ。それをずっと見ていて疲れてしまったんだ。
 ― 「音は素晴らしいよ、トッド、さあ、この音を録音しよう。」、( トッドはキーボード・パートを演奏していたんだ。 )「もうそれは済んだ。」と彼は応えた。「なんだって、ふざけているのか。」「終わった、それだけだ。」 ― 
 二つのレコーディング哲学がぶつかったんだ。僕もその炎に巻き込まれてしまったんだ。ベース・パートをどう扱うのが最善なのかと言うことについての束になった意見が飛び交っている中で、僕は、魂を奮い立たせようと頑張ったんだ。でも、それは、僕の中で、爆発寸前の火山のようなものだったんだ。僕はそれに蓋をしようとしたんだ、それで、しくじってしまった。「アーン・イナフ・フォー・アス」の時に吹上げたんだ。僕は、僕の演奏は、もちろん技術的には目覚ましいものではないけれど、溌剌としていると思っていたんだ。少なくとも、他の誰にも似ていないと思ったんだ。でも、他人はそれぞれの見解を持っているんだよ。進行中の権力闘争だったんだと、僕は今思うんだ。僕は十字砲火に晒されてしまったんだ。それが、僕を怒らせたんだと思うんだ。僕は、三週間、全く何もしなかった。トッドが、夜遅くやって来て、レコードの残りに参加させたんだ。
 僕が迫られていなかったのは、僕個人の問題だったんだ。僕にとって、セッションはとても具合の悪いものになったんだ。その、何と言うか、ええと、「ご主人様」の出現によってね。それはもう、リハーサルの時からだったんだ。そして、家に帰るまでずっと、その辛い状態は僕を離れなかったんだ。その結果、僕は、その土地の医院に行って、日当のほとんどを治療費に使ったんだよ。前立腺炎だと言われた。前立腺炎だって、本当に! ( 本当だったんだけれど ) 精神身体的にそれは症状が出たんだね。本当に憂鬱の嚢になっていたんだ。僕は、医院の待合室から窓外の景色を眺めていたよ。ゴールデン・ブリッジが眺望出来たんだ。そして、家のことを夢見たんだ。どうしてセッションがあんなに駄目になったんだろうと訝りながら、それとも、そう見えるだけなのだろうか、と思ったりしながら。口髭を生やして皮ジャケットに身を包んだたくさんの若い男たちを、あっという間に貧相に衰弱させてしまうと言う病気を直接見ることは、どんな悪夢よりも恐ろしいものだったんだ。僕は、医院の廊下を生きる屍となって歩いてたんだ。レコーディングの最中に、僕は、そんな愚にもつかない目にあったんだ。こんなことを喚いたりして済まないと思うんだけれど、でも、このような過剰な要素が人の精神に影響するものなんだ。ああ、僕は、レコーディングの間、僕の世話をしてくれる人が欲しかったんだよ。僕は不安定だったんだ。そんなのは僕一人だけだとは思わない。きっと、ウッドストックの水の所為なんだ。どうしたって、飲めないようなものなんだ。それとも「 Vons 」だったのかな ( スーパーマーケットの商品 )? 無断外出しても不思議じゃないさ。僕はずっと、僕の空想の中で、自分の家にいて自分の寝室で、ポータストゥーディオ ( ポータブルのマルチトラックレコーディング機 )の上にかがみ込んでいたんだ。それが僕の世界だった。今、僕は、それを大きなスクリーンに転写することは出来ないよ、残念だけど。何もかもが多すぎたんだ。それが修行なのかな。
 セッションの間、何度も、アンディは僕のところへ来て、「俺は面白くない、分かるだろう」と言ったんだ。実際、アンディがセッションを楽しくなるように僕が出来ることなんて、知りようもなかったんだ。だけど、アンディから何とか逃れようと言う僕の決意が固まりつつあることが、彼を参らせているのだ、と言うことは、心の底では、僕は分かっていたと思うんだ。アンディは、その時にはすでに、それまで僕らが使って来たプロデューサーとは全く違うプロデューサーの所へ来たんだということが、すっかり分かっていたんだと思う。それは、時間の問題だったんだ。この権力の移譲には、後にレコード会社がいたんだ ( それに、僕らの会計 )。可哀想なアンディは、その状況を覆すには、まったく無力だったんだ。
 『スカイラーキング』に僕たちが取掛かった時、僕たちは、ちょうど浜に打ち上げられて苦しんでいて、僅かばかりの食べ物で生命をつないでいるクジラの様だったんだ。それに、報道陣からは押しやられて遠ざけられていたんだ。ニューロマンティックに夢中の大英帝国は、伊達男たちが飛び着いていたシンセミュージックをいじくり回していたんだ。だけど、僕らはそうでなかった。僕らにはヒットが必要だったんだ。ヒットを一作創り上げるか、少なくとも、傑作を創るかしなければ、次のレコードを創ることは出来なかったんだ。僕は、ヴァージンがプラグを引っこ抜くと言う状況からそんなに離れてなかったと確信しているんだ。バンドは長続きするための踏み石が必要だったんだ。それは新しい展開だったんだ。「ヒットレコードか傑作」と言う雰囲気が、レコード会社の上層部から僕たちの所まで漏れ伝って来ていたんだ。だけど、僕たちが、それ以前よりもっと努力したとは言えないんだ。僕たちは、ただ、偶然に、ある傾向の歌を選んだだけ。それは、それまでのものと違っていて深い心情のあるものだった。そして、それらの歌を表現するのに、ある決まった方法に固執するおかしなプロデューサーがいた。「ディア・ゴッド」が合衆国でヒットになった。その歌は誰もが ( 作者までもが ) 無視していたのに。中立的に言えば、それがアルバムから外される前には、少なくとも、トッドのオリジナルな曲順には入っていたんだ。 ( 構成の卓抜さよりも頑固さの方が勝っていたんだとぼくは思う。 )  アンディは、レコード会社に、自分のアイディアに沿って再編集させようとしているみたいだったんだ。でも、僕は、それはコップの中の嵐に過ぎないと思う。僕が思う所では、それは、トッドのオリジナルの曲順ではなかっただろうけどね。
 レコードを創り終えて見ると、それは素晴らしいものだったんだ。アルバムには優れた歌があったし、優れたアルバムだった。僕は、家に帰ってそれを聞いたんだけど、歌たちが音の小さな門から飛び出して目覚ましい音になっていくのを聞いた時、ものすごくたくさんの「うぁー、へぇー」を発したのを覚えているんだ。分からないんだ。それだからなのか、それにも拘らずなのか、どっちだか僕には分からなんだけれど、僕がこのレコードを好きな理由のひとつは、この音なんだ。このレコードには、ラジオできれいに聞こえる中音域の音があるんだ。みんなは、60年代のレコードには、700から800キロヘルツの音がたくさん使ってあるのが分かると思うよ。自分のデモを録音しなければならない時には、眠っている間の姿を夢見るんだよ。それは、レコードに「魂」を吹き込む魅力的な周波数なんだよ。
 レコーディングと言う公海でのまた別の冒険談は、僕の本に書いたんだ。近いうちに、有名新聞販売店に並ぶ筈。― 冗談!  ココア・タイムの前に、もう少し、僕の話を溜め込んで切る最中なんだ。

 じゃあね、

Colin Moulding
posted by ノエルかえる at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | Skylarking | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月05日

新『 Skylarking 』

 新『スカイラーキング』届きました。レコード・プレイヤーがないので、とりあえず、装丁を眺めるだけなのですが。
 アートワークは、web 上の写真では、卑猥な感じもあるように危惧していたのですけれど、実際に手に取ってみると、そんなことは全くないものでした。それどころか、性的に煽情するような感もありませんでした。表面に女性、裏面に男性のトルソが輝きを抑えられた金色の縁に囲まれて置かれているのですけれど、それは、人間の実在感、生きると言う苦行、を思わせるもので、それに添えられている小さな花は、あまりに非力な鎮魂の供物のようです。
 男性、女性のトルソは、写真を加工したものかもしれませんけれど、土で造られた塑像のように、あるいは、石版画のようにも見えます。そのために、皮膚への触感がなくなり、重い実在感が出て、エロスもロマンも消されてしまったのかもしれません。
( 「 Grass 」のアートワークの方が、ロマンティックでエロティックです。 )
 このように感じるのは、パートリッジの本意とは反対なのかもしれませんが。


 どこか、なるべく高級なオーディオ・セットで聴ける所がないかと思っています。
posted by ノエルかえる at 16:39| Comment(2) | TrackBack(0) | Skylarking | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

I Remember the Sun 訳

 ムールディングの「 I Remember the Sun 」。

 「 golden sand 」と言う語からは、次のアルバム『 Skylarking 』のパートリッジの「 Summer's Cauldron 」が連想されます。

 「 Yes I'm sleeping, my mind's on the blink 」、『失われた時を求めて』的なのか? そんなこともないのでしょうけれど。

 at the drop of a hat は、without hesitation or good reason の意味ですけれど、hot との連想も働いているのかもしれません。


拙訳です、




原っぱで、日に灼けて黄金に輝く砂と同じほどに熱くなって、
僕らは何時間も遊んだんだ。
僕はあの日々に思いを馳せているんだ、僕らには
とてつもない力があったあの日々に。
そう、眠っている間には、僕の心は明滅する思い出に乗っているんだ。
そう、それは、パラパラと捲られるインクで書かれたページのように思えるんだ。
僕は遠い日々のことを思い出す、
たくさんのことが思い出されるんだ、でも、
何よりも、太陽を思い出す。

太陽を見つめようと細めた両の目を突き抜けて、
火の玉が脳の中に留め付けられたんだ。
道路のターマックは柔らかくなってしまい、
籾殻は燃えて煙の壁に塗り込められる。
そう、僕は泣いているんだ、涙が込み上げて来る、
何の訳もないのに、感傷的になってしまうんだ。
学校に通っていた日々を思い出すと、そうなるんだ。
僕は遠い日々のことを思い出す、
たくさんのことが思い出されるんだ、でも、
何よりも、太陽を思い出す。

太陽は始終照っていた、
僕らの身体に力を注ぎ、僕らの心を燃え立たせたんだ。
けれども、日焼けは、すぐに消えてしまう。
道路の上で水のように見える陽炎の熱が消えるのと同じに。
何よりも、太陽を思い出す。
posted by ノエルかえる at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | The Big Express | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする