2019年02月27日

『 Oranges & Lemons 』記念日

 1989年2月27日、 XTC は、『 Oranges & Lemons 』をリリース。今日は記念日。今年は30周年。 
Chalkhills: XTC: Oranges & Lemons 

日本盤は、LPはなくて、CDで、ビクターからリリース。1989年2月21日。( なので、先行発売?)


 この日の出来事、ベネズエラの首都カルカスで大規模な暴動が発生( Caracazo )。軍隊が発砲し、多数の死傷者が出た。
「 Here Comes President Kill Again 」 
( XTC は、1981年4月29日と30日、カラカスでコンサートを行っているけれど、29日のコンサートでは、民衆と武装警官隊の間に挟まれて、非常に危険な思いをしている。 )
 今年もまた、ベネズエラで政変。


 この日亡くなった人、動物行動学者のコンラート・ローレンツ Konrad Lorenz 。享年85。 

 1989年のカーニバルは、2月5日か知ら? 告解火曜日 Shrove Tuesday は2月7日。  


 その頃、イギリスでは、ニュー・オーダーのアルバム『 Technique 』がヒットしていた。 

 Talking Heads は、前年の1988年にアルバム『 Naked 』を発表している。解散を公表はしていないけれど、これがバンドとして最後のアルバム。 
 Ramones は、ディー・ディー・ラモーンの在籍した最後のアルバム『 Brain Drain 』をリリース。 
 Shriekback は、前年の1988年に『 Go Bang! 』をリリース。 
 エルビス・コステロが、直前の1989年2月6日に、アルバム『 Spike 』をリリースしている。

 トム・ヴァーレインは、1990年に、アルバム『 The Wonder 』を発表している。

 オーネット・コールマンは、1988年にアルバム『 Virgin Beauty 』を発表している。  

 マドレデウスの『 Existir 』は、1990年。 

 姜泰煥の『 Korean Free Music 』も1989年。

 マーク=アンソニー・タネジ Mark-Anthony Turnage は、1989年には、ソング・サイクル『 Some Days 』と管弦楽曲『 Three Screaming Popes 三人の叫ぶ教皇 』を完成。

アンドルー・ロイド・ウェバーのミュージカルは、『 Aspects of Love 』。  

 1989年には、’87年に亡くなったモートン・フェルドマンの『 Triadic Memories 』が高橋アキの演奏で、コジマ・レコードからリリースされている。( 作曲は1981年。 )
 細川俊夫は、1987年に、オーケルトラ曲『遠景I』。’88年に『記憶の海へ ヒロシマ・シンフォニー』。

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2019年02月26日

「 Ball and Chain 」記念日

 1982年2月26日、XTC は、シングル「 Ball and Chain 」をリリース。今日は記念日。37年前。 
Chalkhills: Reel by Real: XTC: "Ball and Chain" 

 その頃ヒットしていたのは、1月29日にリリースされた、The Jam の「 Town Called Malice 」。The Stranglers の「 Golden Brown 」( 1月10日リリース )は、「 Town Called Malice 」に阻まれて、全英1位になれなかった。 
 「 Ball and Chain 」は全英58位。ball and chain | full Official Chart History | Official Charts Company
Town Called Malice - Wikipedia
Golden Brown - Wikipedia

トーキング・ヘッズが1982年にリリースしたシングルは、「 Life During Wartime (live) 」。  


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2019年02月22日

『 Apple Venus 』記念日

 1999年2月22日、XTC は、アルバム『 Apple Venus 』をリリース、今日は記念日。今年は20周年。 
日本盤は、2月17日に。
Chalkhills: XTC: Apple Venus Volume 1 

 
 できごと、その翌日の1999年2月23日、イギリスの「女性」作曲家、ルース・ギップス Ruth Gipps が死去。ギップスは、1921年2月20日生まれ、享年78。作曲は、ゴードン・ジェイコブ、ヴォーン・ウィリアムスに師事。調性音楽。五曲の交響曲がある。調性だけれど、構成は複雑で、そういうところ、イギリスのプログレッシブ・ロックの土壌になっているのかも。

 1999年2月15日、ミネソタの州知事ジェシー・ベンチュラ Jesse Ventura は、2月25日を「ローリング・ストーンズの日」と宣言。ジェシー・ベンチュラは、元プロレスラーだけれど、ローリング・ストーンズのボディーガードだったことも。定着しているのかどうかは分からない。その日一日だった???  




 ジョー・ジャクソンは、1999年に、交響曲第1番を作曲。 
Symphony No. 1 (album) - Wikipedia
 アラン・ホディノット Alun Hoddinott は、交響曲第10番を作曲。 
 シュトックハウゼンの『光の中の日曜日』。

 1999年には、サンタナの『 Supernatural 』がリリース。 
 ジョン・ゾーンは『 The String Quartets 』。
 アート・リンゼイ は『 Prize 』。 

 Sainkho Namtchylak の音盤がオーストリアのレーベルからリリースされたのも1999年。『 Aura 』。ホーミーの女性ヴォーカル。 

 『 Mamma Mia! 』のミュージカルが初演の年。
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2019年02月20日

2017年版『 Black Sea 』ノート:デイブ・グレゴリー

 2017年版『 Black Sea 』に付けられたノート。デイブ・グレゴリーのもの:  





   黒海の航路を立てる 

 1980年は、XTC にとって、最も忙しいそして間違いなく最も重要な年になる気配で始まりました。困憊したアメリカツアーからは三月16日に帰国していて、評判の良かったアルバム『 Drums And Wires 』に続く作品を出さなければならないと言う重圧があったのです。『 Drums And Wires 』は、バンドの最初の全英トップ20のシングル「 Making Plans For Nigel 」を出していました。直前のアメリカツアーでは、精神が消耗しきってしまうと言う予兆が、初めて明らかになっていたのです。 
 そのツアーの成果の一つには、10代向けの映画に一曲を提供するように勧誘されたと言うことがあります。依頼は、ロバート・スティッグウッド・オーガニゼーションからのもので、『タイムズスクエア Times Square 』と言う題名でした。ティム・カリー Tim Curry 主演で、トリニ・アルバラード Trini Alvarado とロビン・ジョンソン Robin Johnson が女性の主役でした。アンディは「 Take This Town 」を作りました。十代の有名人になりたいと言う願望を抱えた人物を描いたのです。そして、バンドは、その歌を録音するために、五月10日に、ヒュー・パジャムと共に、ロンドンのタウンハウス・スタジオに戻りました。新しいアルバムのためのリハーサルは、既に、スウィンドンで始めていました。それで、序でに、二曲をレコーディングすることが決められたのです。「 Rocket From A Bottle 」とコリンの「 Love At First Sight 」です。それらは、シングル候補でした。この時の録音のアシスタント・エンジニアは、実際にその後のアルバムでのほとんどもそうなのですが、ニック・ローネー NIck Launay という若者でした。彼は、その後の十年、また更に後まで、眼を見張る様な経歴を作り上げ続けることになるのです。( Wiki を参照のこと )
 レコード会社は、映画用の曲には満足していました。けれども、次のシングルを選ぶのは、もっと歌が出来るまで待つことにしたのです。私たちは、ヴァージン社のタウンハウス・スタジオ2に戻れる様にと強っての希望を出していました。けれども、スタジオもエンジニアのヒュー・パジャムも六月中旬まで使えなかったのです。そういう訳だったので、私たちは、幾つかのベーシックなトラックをマーブル・アーチにあるフォノグラム・スタジオで録音することに決めたのです。以前はフィリップス社所有の施設で、六十年代には、ウォーカー・ブラザーズやダスティ・スプリングフィールドをはじめ多くの歌手やバンドによる素晴らしい作品を創り出していました。また、スティーブ・リリーホワイトが学校出たすぐ後、テープ・オペレーターとして訓練をしたところなのです。 
 バンドは、六月8日に乗り込みました。それからの九日間、数知れない故障と技術的問題と悪戦苦闘しながら使用に耐えるベーシックなトラックを録音しようと努力したのです。1日目は、「 Take This Town 」のミックスの為に取って置かれていたのです。映画会社がその翌日にはマスター・テープを渡す様に要求していたのですから。午後7時ごろ、気味の悪い甲高くブーンと鳴る音がコントロール・ルームに出現したのです。それがどこから鳴るのか突き止められませんでした。切羽詰まった感で、近くのスタジオに電話をして回ったのです。幸いに、タウンハウス・スタジオに使える空いた時間があったので、私たちは、大急ぎでテープを持ってそちらに行って、僅かの間に、クリス・ジェンキンス Chris Jenkins のエンジニアリングでミックスをしたのです。 
 フォノグラムの虫は次の日の午後2時に、何処なのかが特定されました。そして修繕されたのです。けれども、スティーブとエンジニアのオーエン・デイヴィス Owen Davies にとって技術的問題は続いていたのです。彼らは、スタジオの古色蒼然とした機器と雄々しく格闘していたのです。私は、こんな巨大なサウンド・ステージが当時どの様に、このそれ程でもない、この中規模な空間に造り出されたのか、どうにも思い描けませんでした。グレムリンたちは、私たち自身の機器にも取り憑いたのです。あの場所は霊が出るのです! アンディーの新しいマーシャル・アンプは、始終、ヒューズが飛んでいましたし、新品のHH 社の「 MOS-FET [ トランジスタ ] [ HH V200 MOSFET Amp (HSR Mar 84) ]」パフォーマー・アンプは、コリンと私にいくつもの問題を突き付けました。二、三日後、その時のセッションから取り出せるちゃんとしたものは殆ど無い、と言うことに全員の意見が一致しました。そして、次の週には、ヒューと一緒にタウンハウス・スタジオで初めからやり直そうと決めたのです。 
 私たちは、フォノグラム・スタジオでの最後の日を、アルバムに入れる予定のほとんどの歌をライブで演奏して録音することに費やしました。その主な目的は、スティーブとヒューに役に立てばと言うことだったのです。アルバムに入った歌の他にも、数曲が録音されました。コリンの「 Ban The Bomb 」。その歌は、それまでにスタジオで製作中だったのです。それから、アンディーのソロ・ヴァージョンでの「 Pearl, Monkeys In Human Skin Suits 」と「 Holding The Baby 」。その時の一曲だけは、公式にリリースされました。「 Smokeless Zone 」がそれです、八月の終わりに、「 Generals And Majors 」のボーナス・シングル版の中に入れられました[ 二枚組のシングル。その2枚目のA面 ]。 
 六月23日に、タウンハウスの第二スタジオに戻ると、私たちは、馴染んだ環境の中に身を置いたのです。それに、ヒュー・パジャムも制御デスクに復帰していました。ところが、直ぐにも、もっと多くの問題に悩まされたのです。主には、ギターのチューニングです。それから、ほとんど壊滅的に思われたテープ・マシーンの故障です。間一髪で、一日を掛けた仕事の「 Don’t Lose Your Temper 」を消去してしまうところでした。問題は治っていって、日が進むのに従って、しっかりとした進展を収めていったのです。テリー・チェンバースにコリンも加わって、ストーン・ルームで、ドラムズとベースのトラックを録音しました。ザ・ジャムが隣の第一スタジオで、彼らのアルバム『 Sound Affects 』を製作中だったと、私は記憶しています。ドラマーのリック・バックラー Rick Buckler が覗きに来て、手拍子で参加しました。また、ポール・ウェラーがギターを録音しているブースから、波状にうねった鉄の薄板を借りることも出来たのです。私たちは、それを「 Living Through Another Cuba 」でのテリーのドラムの反響音の為に使ったのです。スタジオのスタッフが、毎日決まって、お茶とケーキを提供してくれました。その、食べ物を載せて出されたトレイが、「 Paper And Iron 」のパーカッション部を増すのに使われたのです。もっと革新的な背景音がテリーのフォード・カプリ[ フォード・カプリ - Wikipedia ]の車体から取り込まれました。入り口の側に駐車していたのです。助手席のドアをイライラした感じで強く閉めるのを録音したのです。「 Respectable Street 」にある雰囲気を加えることが出来ました。 
 私たちはレコーディング・セッションまでに、全員が、自分たちの兵器廠にそれまで以上のギターを加えていたところでした。アンディーは、ギブソン・レスポール・スタンダードを、もっと安い、マホガニーの胴のギブソン・”ザ・ポール”に変えていました。彼の代名詞だったアイバニーズ・アーティストは、家に置いてきていました。小さなマーシャル・コンボを『 Drums And Wires 』には使っていたのですが、それは、大きなマーシャル2203 ハーフスタック( 二段積み ) に換えられていました。タウンハウスのセッションまでには、ヒューズの故障も修理されていました。コリンと私は、イギリスの会社 HH から、いくつかのアンプリファイヤーを提供されていました。HH は、ケンブリッジに本拠を置く会社です。会社は、トランジスターを使用した新しい種類のモデルの実装テストをして見たかったのです。「ザ・パーフォーマー」という名称のシリーズです。それは、最初に二、三の問題がありましたが、その後すぐに、スタジオ内で素晴らしい響きを出すことが証明されたので、アルバムのレコーディングを通して、殆どの部分でそれを使ったのです。 
 コリンは、フェンダー・ムスタング・ベースを60年代後期のエピフォン”ニューポート”ベースに換えていました。ブリッジの近くにディマジオ・ハムパッキング・ピックアップを装着していました。アルバムのほとんどで使っています。私は、直前に、重たい1977年製楓材ネックのフェンダー・テレキャスターを購入していました。私は、それにセイモア・ダンカン社の’ブロードキャスター’ピックアップを装着したのです。それは、割れたガラスのような音が出るのです!( アンディは、このギターを「 Respectable Street 」のソロに使っています。 ) 私は、馴染んだストラトキャスターとエディー・フィリップス[ Eddie Phillips (musician) - Wikipedia ]のギブソンES335を使い続けていました。それに、大好きなギブソン・ファイヤーバードVを使いました。それは、合衆国ツアーの時に私が持ち帰ったものなのです。ニューヨークにいる間、私たちは、エレクトロ・ハーモニクス Electro-Harmonix [ エレクトロ・ハーモニックス - Wikipedia ]の工場を訪問しました。そして、アンディ用にデラックス・エレクトリック・ミストレス・フランジャー Deluxe Electric Mistress[ EHX.com | Deluxe Electric Mistress - Instructions | Electro-Harmonix ]を持ち帰りました。私は、DRM16 リズム・ユニット[ EHX.com | EHX Virtual Drum Machines | Electro-Harmonix ]を持って帰りました。この一風変わったリズムボックスは、「 Living Through Another Cuba 」の終わりで聴くことが出来ます。その音は、リリーホワイトの無線モニター、アーチャー Archer から漏れ出てる音を拾ったのです。[ Archer が商品名か会社名かはわかりません。 B&H 社に Archer と言う名称のルーターはあるようですが。 ] その方法は、リリーホワイトが、前年のピーター・ゲイブリエルの「 Intruder 」で使って良い効果を出していたのでした。使った鍵盤楽器は、私たち所有の小さなコルグ700S シンセサイザーとスタジオにあったYAMAHAのグランドピアノだけです。テリー・チェンバースは、ちょうどタマ・ドラム Tama Drums の推薦人になっていたところでした。[ Tama Drums - Wikipedia ] バンドの1979年のジャパン・ツアーの時に名古屋の工場を訪れて後、推薦人になっていたのです。 
 レコーディング作業は、時折中断されることがありました。アンディーは、六月30日の仕事が終わった後に、キーボード奏者のモーガン・フィッシャー Morgan Fisher が編集したコンピレーション・アルバム『 Miniatures 』の為の録音をしました。「 A History Of Rock’n Roll [ 原文のまま ]」です。60秒にも満たないのです。ミキシングは、七月8日に始まりました。その時、バンドは遠くに離れていました。カムデン区のグリーンランド・プレイスにあるラルフ・ホール写真スタジオに居たのです。[ Greenland Place Guide | Greenland Place, Camden Town, London NW1 | Nearby hotels, shops and restaurants | LondonTown.com ] アルバムのカバーを撮影する為です。私は、ステージ衣装として深海潜水具を奨める気にはなれません。それは、最も不快な仕事でした。それが、私たち全員がむっつりした顔をしている理由のひとつです。スウィンドン在住の私たちの友人である才能溢れる画家のケン・ホワイト Ken White が壮麗な背景を描いてくれました。それは、今では、彼の自宅アトリエにぶら下がっているのではないかと、私は推察しているのです。ホワイトは、その後にですが、スウィンドンの壁画に私たちを加えてくれました。もうそれは取り壊されて久しいのですが。それから、リチャード・ブロンソンのヴァージン・アトランティック航空のデザインも手掛けたのです。 
 七月11日、アンディーは、オックスフォード・サーカスのエアー・スタジオで一日を過ごしました。イエロー・マジック・オーケストラのリューイチ・サカモトとレコーディングをしたのです。彼のアルバム『 B2 Unit 』にギターで参加したのです。その間に、コリンの「 Genelas And Majors 」がミックスされました。18日には、私たちは、新しいシングルのビデオを撮影するのにレコーディングは一日休みました。「 Towers Of London 」です、監督はダグ・スミス Doug Smith でした。撮影には、著名なロンドンのランドマークをいくつか訪れることも含まれていましたが、それは、おそらくは、アメリカと日本のファンの注目を集める為だったのでしょう。撮影は、ラッシュアワーが始まる前の午前7時に、セント・パンクラス駅の階段[ St Pancras International Station London | Nearby hotels, shops and restaurants | LondonTown.com ]から始まりました。それから、アルバート記念碑[ Albert Memorial London | Nearby hotels, shops and restaurants | LondonTown.com]に移動しました。それに引き続いて、タワー・ブリッジの下の川旅をしました。午後8時に、キングスクロスのガス庫の前で終わりました[ Gasholder Park London | Nearby hotels, shops and restaurants | LondonTown.com ]。長い一日でした。あちこち立ちっぱなしでした。 
 七月20日に、アルバムは完成しました。ヴァージン社の広報課長アル・クラークが数名の音楽ジャーナリストを試聴の為にスタジオに連れて来ました。全員が賞賛の拍手をしてくれました。それに、私たちも、アルバムの聴こえに満足したのです。これは重要なことなのですが、このアルバムは、レコードのままステージのライブ演奏が比較的に容易だと言うことも、聴いて取れたのです。その年の残りの日々、より多くの巡業公演が私たちの前に待ち構えていたのです。 
 私は、『 Black Sea 』の製作については、楽しい思い出はあまり持っていません。自分の病気( 糖尿病 ) を等閑にしてしまっていたのです。それで、不機嫌で何度も癇癪を起こしていたのです。それとは別に、私たちはお互いをもう少し良く知るようになったのです。偶には別々になって適度な夜の睡眠を取れたのですが、それが様々な問題を解決したのかもしれません。そう思います。例えばコリンですが、アルバムが完成したすぐ後に、ソロのシングルをレコーディングすることを決めています、テリーだけをそのシングルに招いていました。一枚の絵はまとまっていたのです。 
 驚いた変事もありました。ある午後、コントロール・ルームに入った私は、黄緑色のスーツを着てとても上品に見えるジョン・マーティン John Martyn [ John Martyn - Wikipedia ] がデスクのところに立っているのを見たのです。またある日、偉大なレコーディング・エンジニア、エディ・オフォード Eddie Offord [ Yes のレコーディング・エンジニア:Eddy Offord - Wikipedia ] が本物のカラスを肩に乗せて歩いていたのです。誓って、作り話しではありません! またある夜遅く、スタジオから締め出されたと気が付いたクリス・スクワイアは、中に入る為に、大きくて頑丈な正面のドアを壊して蝶番から外したのです… [ 1980年の4月から6月、イエスは、タウンハウス・スタジオで『 Drama 』を製作。トレヴァー・ホーンとジェフ・ダウンズが参加しているアルバム。 ]
 アルバムのミックスが終わった一週間後には、バンドはスウィンドンに戻って、次のツアーのリハーサルをしていました。ツアーは、八月8日に、オランダから始まる予定でした。それから、フランスに行って、ザ・ポリスのパッケージ・ツアーに加わることになっていました。そのパックツアーには、ザ・ビート The Beat 、UB40、Skafish[ Skafish - Wikipedia ]、Jools Holland’s Milionaires [ Jools Holland - Wikipedia ]が参加していました。テレビのドキュメンタリー番組『 XTC AT The Manor 』が、週末に当たった八月22日に、オックスフォードシャーのマナー・スタジオで催されたリチャード・ブロンソンのガーデンパーティーを収録しました。そのドキュメンタリーは、私たちのシングル「 Towers Of London 」の録音の様子を撮影したものだと称していました。事実を言えば、その曲は、数週間前に録音済みだったのです。最新のシングル「 Generals And Majors 」様に、バカバカしいビデオも撮影されました。その中には、リチャーロ・ブロンソン自身も「徴兵」されたのです。 
 それから、バンドはフランスに戻って、残りのザ・ポリスのツアーを勤め上げました。フランスの後には、二日間のスペイン、それから、九月の初めには、オーストラリア、ニュージーランドと続きました。十月には、また別のイギリス・ツアーがありました。それは、ほとんどが売り切れになっていました。イギリス・ツアーは、大成功の内に、ロンドンのライシアム・シアター[ Lyceum Theatre, London - Wikipedia ]で終わりました。[ 10月12日、日曜日。 ] それから、合衆国とカナダへ行きました。その時には、ザ・ポリスとザ・カーズと一緒の巨大なスタジアムでの公演もありました。十二月にイギリスに戻ると、帰国四日後には、次のイギリス・ツアーへと押し出されました。それはクリスマスまで続きました。[ 12月22日のハマースミス・パレスが最後。この時の公演は録音されて、『 BBC Radio 1 Live In Concert 』に。 ]
  私たちが、−あるいは誰かが−、『 Black Sea 』から命を搾り出したのでしょうか。それにも拘らず、あれだけの労働の全部を以っても、私たちは裕福にならなかったですし、それどころか、少しでも快適になったと言うこともありません。それにも拘らず、あのアルバムは、素晴らしさを保ったままです。そして、私がなにがしかの貢献が出来たことを誇りに思っているアルバムなのです。  
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2019年02月19日

Honda set to close Swindon car plant

 BBCのニュース、ホンダがスウィンドン工場の閉鎖を決定と、 
Honda set to close Swindon car plant - BBC News


Honda Pulls The Plug on Swindon | SwindonWeb:
http://www.swindonweb.com/?m=2&s=2597&ss=2614&c=15130&t=Honda+Pulls+The+Plug+On+Swindon

 正式のステートメントはまだの様なので、 


追記: 
スウィンドン・アドバタイザーの記事から:
https://www.swindonadvertiser.co.uk/news/17442507.its-official-honda-confirms-swindon-plant-to-close-in-2021/
「Katsushi Inoue, chief officer for European regional operations at Honda Motor Co., Ltd. and president of Honda Motor Europe, said; “In light of the unprecedented changes that are affecting our industry, it is vital that we accelerate our electrification strategy and restructure our global operations accordingly. As a result, we have had to take this difficult decision to consult our workforce on how we might prepare our manufacturing network for the future.」 
と言うわけで、スウィンドン工場の閉鎖は正式な決定らしい。理由は、自動車の電化ということらしい。
posted by ノエルかえる at 12:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月17日

The Beatles 「 I Will 」訳

 ビートルズ、マッカートニーの歌「 I Will 」。 

 元にしたのは、ビートルズのホームページの「 Songs 」だけれど、ここでは、第三ヴァースの Make it easy to be near you が抜けています。理由はわかりません。間違いかもしれないけれど。 
I Will | The Beatles

I Will – The Beatles Bible

Alan W. Pollack's Notes on "I Will"


 構成は、ヴァース/ヴァース/ブリッジ/ヴァース。それで、第三ヴァースでは、第三行目の音形が繰り返されて加えられています。 

 「簡潔さ」を主眼にした歌詞だけれど、単純ではありません。歌詞に音の区切りを入れてみても、文の区切りどころか、語を切断するところさえあります。意味内容は、歌詞の行、スタンザを超えて作られています。 
「 Make it easy to be near you 」も加えて、音の区切りをスラッシュで入れてみて: 
Who knows how long / I’ve loved you,
You know I / love you still.
Will I wait a / lonely lifetime,
If you want / me to I will.

For if I eve / r saw you,
I didn't catch / your name.
But it never / really mattered,
I will always / feel the same.

Love you forever and forever,
Love you with all my heart.
Love you when we're together,
Love you when we're apart.

And when at l / ast I find you,
Your song will / fill the air.
Sing it loud so / I can hear you,
Make it easy to be / near you
For the things you do E / ndear you to me.
You know I will,
I will.


 それから、 I wait a lonely lifetime は、日常的な「 wait a long time 」と言う言い方の洒落なのかも? 前作の『 Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band 』への連想が働くようにしているのかも?
 第三ヴァースは、ジェイムズ・ジョイスの「室内楽」を思わせます。  


拙訳: 


ぼくがこれまでずっと君を愛して来たのを知ってる 
と言うのは君、その君は今でもぼくが君を愛しているのを 
知っている。 きっとぼくが生涯を通じて恋人を求めてたのをわかってる、 
ぼくは誓うよ、君がぼくに誓えと言うのなら。 

とは言うけれど、ぼくが一度でも君に会ったことがあればよかったのに、 
ぼくは君の名前を聞きそびれた、誓いを立てるのには不都合。 
でも、名前を知らなくても、本当の問題にはならないよ。 
ぼくは、名前があってもなくても同じだと思ってる。 

愛してる、君を、いつでも永遠に 
愛してる、君を、全身全霊で、 
愛してる、君を、一緒にいても、
愛してる、君を、離れていても。 

そして、とうとう、ぼくが君を見つける時と言うのは、 
きっと、君の歌が空に響き渡っている時だよ。 
君の歌う歌は朗々として、ぼくには聴き分けられるんだ。 
と言うのも、君が何をしても、 
それがぼくを君に惹かさせるのだから。 
ぼくがきっと君の歌を好きになるって、君はわかってる、 
ぼくはきっと好きになるよ。  
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2019年02月12日

『 English Settlement 』記念日

 1982年2月12日金曜日、XTC はアルバム『 English Settlement 』をリリース、今日は記念日。37年前。

Chalkhills: XTC: English Settlement 

 Talking Heads は、1980年に『 Remain in Light 』を発表してから、次の『 Speaking in Tongues 』を1983年に発表するまで3年間の間があった。1982年には、ライブ・アルバムの『 The Name of This Band Is Talking Heads 』を発表している。  
 The Police は、81年に『 Ghost in the Machine 』、83年に『 Synchronicity 』( バンドとして最後のアルバム )。 
 The Jam は、82年に『The Gift 』( バンドとして最後のアルバム )。
 The Stranglers は、81年に『 La folie 』、83年に『 Feline 』。

 トム・ヴァーレインは、1982年には、アルバム『 Words from the Front 』を発表している。 

 オーネット・コールマンは、『 Of Human Feelings 』を1982年4月にリリースしている。 

 マイケル・ジャクソンの『 Thriller 』も82年。Prince の『 1999 』も82年。 

 ブラック・ユフルは、『 Chill Out 』。  

 フレッド・フリスとクリス・カトラーとダグマー・クラウゼの Art Bears の2枚目のアルバム『 The World as It Is Today 』は、1981年。

 マイケル・ティペットはオラトリオ『 The Mask of Time 』、キャヴィン・ブライアーズはオペラ『 Medea 』を完成。 
 スティーヴ・ライヒは『 Vermont Counterpoint 』。フィリップ・グラスは『 Glassworks 』。 
 武満徹は『星・島』。 

 アンドルー・ロイド・ウェバー作曲のミュージカルは、『 Song and Dance 』。



 五日後の1982年2月17日、ピアニストのセロニアス・モンク Thelonious Monk が亡くなった。 

日本盤は、同年4月21日に、ビクターからリリース。10曲収録の一枚アルバム。 
雑誌『ロッキングオン』1982年5月号に、「ゆるがぬ自律精神 XTC の新作「イングリッシュ・セトルメント」」と言う記事、市川哲史さん。 
雑誌『ミュージックマガジン』1982年6月号のクロス・レヴューの蘭で、中村とうようさんは、『イングリッシュ・セトルメント』に9点。 
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2019年02月11日

PledgeMusicのTC&I のページ

 PledgeMusicのTC&I のページは閉鎖されました。
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Wallace Stevens 「Phases」訳

 ウォーレス・スティーヴンズの「 Phases 」を訳してみました。よく分かりませんが。 

元にしたのは、Poety Magazine の: 
Phases by Wallace Stevens | Poetry Magazine

 1914年に書かれたもので、戦争についての詩ということ。 
作中の、Hopkins は Frank Hopkins アメリカの騎手か? 
Winkle は Rip Van Winkle か? 
London は Jack London か?  





I
パリスに小さな升目街区がある、 
僕たちが通り過ぎるまで控えている。 
人々は用もなく座っている、 
人々はちびちびとグラスを啜っている。 

角には一台の辻馬車が止まっている。 
雨が降っている。季節は悼んでいる。 
雨は、一瞬銀色になり、 
葉で緑色になる。 

窓辺には鸚鵡がいる、 
きっと、列に並んだ僕たちを見ているんだ、 
ドラムロールの響きを聴いているんだ、 
それに、セレナードも聴いている。 


II
栄光の塩味だ。 
違っている、 
アガメムノンの話とは違っている。 
泥の中に、眼球が一つ、 
それが、ホプキンスだ、 
ぺしゃんこで、色が褪せて、血が纏わり付いている。 

V
それでも、夜の軍隊ラッパは、 
翼なのだ、 
僕たちを快適なところへ運んでくれる。そこは、 

僕たちの苦しい夢から抜け出した、 
蝋燭の光線が 
アラベスク模様に絡みつく。 

風が吹き付けるそこでは、 
アイリスが項垂れながら伸びていく。 

散発的な至福、それは、 
夜の深淵で歌う鳥たちだ。 

壁に沿って、 
黄色い実をつけた蔓が落ちている。 
地獄との境界になっている 
壁に沿って。 

W
死の崇高さが、また、 
ただの男たちを美化する。 
眠りこけたウィンクルは、
死ぬ時、 
アガメムノンの満足感を味わった。 

この塩辛い、生贄の味を前にして、 
ロンドンの仕事と廃物は
彼に 
何をしてくれたのだろうか? 

ロンドンの悲嘆は、 
この刹那の勝利の一刺しを前にして、 
何をもたらしたのだろうか? 




I.
There’s a little square in Paris,
Waiting until we pass.
They sit idly there,
They sip the glass.

There’s a cab-horse at the corner,
There's rain. The season grieves.
It was silver once,
And green with leaves.

There’s a parrot in a window,
Will see us on parade,
Hear the loud drums roll−
And serenade.


                           II.
This was the salty taste of glory,
That it was not
Like Agamemnon’s story.
Only, an eyeball in the mud,
And Hopkins,
Flat and pale and gory!


                           III.
But the bugles, in the night,
Were wings that bore
To where our comfort was;

Arabesques of candle beams,
Winding
Through our heavy dreams;

Winds that blew
Where the bending iris grew;

Birds of intermitted bliss,
Singing in the night's abyss;

Vines with yellow fruit,
That fell
Along the walls
That bordered Hell.


                           IV.
Death's nobility again
Beautified the simplest men.
Fallen Winkle felt the pride
Of Agamemnon
When he died.

What could London’s
Work and waste
Give him−
To that salty, sacrificial taste?

What could London’s
Sorrow bring−
To that short, triumphant sting?




posted by ノエルかえる at 16:23| Comment(0) | 薬師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月03日

今日はそんな日だったんだ:Buddy Holly

 1959年2月3日、バディー・ホリーが飛行機事故で亡くなる。 
Buddy Holly - Wikipedia
 評論家(?) のChris Dahlen. さんは、XTC を「アンフェタミンを飲んだバディー・ホリーがパンクと出会った。」と形容している。 
XTC: Go 2 / Black Sea / English Settlement Album Review | Pitchfork

 パートリッジの娘の名前も、Holly。



posted by ノエルかえる at 10:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月02日

「 The Meeting Place 」記念日

 1987年2月2日、 XTC は、シングル「 The Meeting Place 」をリリース。今日は記念日。今年は、32周年。 

Chalkhills: Reel by Real: XTC: "The Meeting Place"

2月2日は、柴田南雄の命日でも。1916年生まれ、1996年没。享年79。 

 そして、2月2日は、ジョイスの『ユリシーズ』が発刊された日。1922年2月2日。97年前。もうちょっとで100周年。で、ジョイスの誕生日でも。1882年2月2日生まれ。137歳。『ユリシーズ』は、40歳の誕生日に刊行。 

posted by ノエルかえる at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする