2019年07月18日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート4 の1

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の6: ノエルかえる不恵留





バーンハート「多くの若いドラマーが衝動に駆られて叩きすぎると言う嫌いがあるのですが、この当時の貴方は、歌を支えるだけ、歌が必要としていることだけを叩いて満足してる様に聴こえます。」 
チェンバース「それは、同時に、音楽的能力が不足していることから来ているのですよ! ( 笑う ) 実際、自信を持っていたかどうかは、分かりませんね。おかしな話ですよ。ある日のことですが、ジョン・レッキーと対峙したことがあるのです。私はシンバルの音のことで色々と考えていまして、「シンバルの音をこうしたいのだけど、それにこんな音も」などと言っていたのですが、それがジョン・レッキーを苛立たせたのです。私の方に向き直って、切り詰めた声でこう言ったのです。「それが、レコードをもっと売れる様にすると思う?」 結局、認める以外ありませんでした。( 笑う ) 多分、売れなかったでしょうね。さあ、進め! ですね、全く( 笑う )。私は自分の立場を思い知ったのです。彼は、いろいろの言い方の中で、一番良い言い方で言ったのですけれど、もしかしたら、あれは、機嫌の悪い日だったのかもしれませんね。」 
バーンハート「兎に角、プロデューサーの役割ですね。きちんとチェックしないと。」 
チェンバース「ええ、そうです。」 
バーンハート「ところで、今、貴方はジョン・レッキーさんについてお話し下さいました。それは、『 Go 2 』でのことですね。私が、今話した、循環的なドラミングに最初に気が付いたのは、その『 Go 2 』でなのです。「 Battery Brides 」「 Life Is Good in the Greenhouse 」を聴いてからなのです。ですが、貴方たちは、バンド内で大きな変化を迎えたのですよね。プロデューサーが交代して、キーボード奏者がいなくなって、ギター・プレイヤーが入って来たのですよね。その時ですが、貴方はその変化をどう思われたのですか?」 
チェンバース「そうですね。ファースト・アルバムは、それまでずっとリハーサルして来たことそのままで仕上げられた、と思います。短い時間で、あっという間に仕上げたのです。 
 『 Go 2 』ですが、そこには、それまでとは作歌の仕方が少し違うものが入っていました。コリンの歌が少し多くなっていましたし、アンドリューズの歌が入っていました。そして、私たちは、前回とは違うスタジオに行ったのです。明らかに、事態は変化しつつあったのです。それで、アンドリューズが作歌の点でバンド内の役割をもっと得たいと思う段階に至っていたのです。アンディーは、彼の歌は違う方向を向いていると感じていました。それで、結局、バリーは去って行ったのです。私は思うのですが、コリンと私、それにもしかしたらアンディーも同様かもしれないのですが、最初の二枚のアルバムは、私たちの本質という点に於いて、何か出てないものがある様に感じていたのです。私たちがレコード制作において学んだことは、これは私がそう思っているのですが、多くの音楽はビニール盤になると、ずっと静かになってしまう、と言うことだったのです。私たちは、ステージのライブではとても喧しいバンドだったのです。その喧しさは、最初の二枚のアルバムではまるで表れていません。そう思いませんか? アルバムのジャケットに「 Play this album loud or not at all / このアルバムは大音量で再生のこと、さもなければ、全く再生しないこと」。と目につく様に記したのにも拘らずです、肝心のレコードが十分でなかったのです。それで、私たちは、私たちの演奏そのままに録音されることを望んでいたのです。 
それが、アルバム『 Drums and Wires 』で実現出来たのです。全体を通して、ずっと大きな音になったのです。前の二枚に比べれば、癖の少ないアルバムでした。キーボードのある編成から、ギター中心の編成に戻っていたのです。私たちは、ほとんど一回りしたのです。最初の二枚のアルバムでは、キーボードは、第二のリード楽器でした。『 Drums and Wires 』では、デイブは、ギター・プレイヤーだったのです。デイブはキーボードも弾くことが出来た訳ですけれど。詰まりですね、デイブの加入は、幅広い戦力の加入であり、ムーブ[ サッカー用語:パスを出した選手が立ち止まらずに前方に限らず次のポジションへ移動すること。 ]だったのです。音楽的には、より向上しました。と言うのは、パートリッジがリズム・ギターを弾き歌っている間に、デイブは、難しいフレーズを弾くことが出来たからです( 笑う )。それで、お分かりでしょうけれど、アンディーはそれにとても満足していました。デイブは、何かを言われると( 笑う )、すぐに承諾して、しかも出来ると言う人だったのですから。それに、彼も地元の人間でしたし、本当に、上手くいったのです。」   

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2019年06月14日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の6

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の5: ノエルかえる不恵留





バーンハート「先程は、演奏技術について少しばかりのお話しをして頂いたのですが、同時に、何曲かについても話して下さいました。そこでですが、強拍のない所で、ハイハットを使うことが多い時がありました。「んと」の所ですね。パートリッジさんは、「豆スープ Pea soup : ハイハットを開けたまま叩いて直ぐに閉じる奏法 」と言う呼称を好んでいましたが。それが最初に聴かれるのが、「 Meccanic Dancing 」だと思うのです。その次に聞かれるは、「 Helicopter 」です。それから、「 Generals and Majors 」と続きます。」 
チェンバース「ああ、「 Meccanic Dancing 」はアンディーの「ダンス曲」の一つですよ。とっても踊り向きです! 今でもうんざりしますね( 笑う )、でも実際にアンディーが踊るところを見ると分かりますよ、あれがダンス曲だと言うことに納得されるでしょうね。アンディーが踊るのを見た後では、貴方は屹度こう言うでしょうね。「おお、この曲はなんて踊りやすいんだ! 但し、誰もがアンディーの踊り方で踊ることが出来ると言う条件付きだがね。若し、アンディーが世界中の者を彼の様に踊れる様にすることが出来たならば、彼はヒット曲を作れるだろうに!」 ( 笑う )。今、アンディーが踊っているところを頭に描いてしまいましたよ。何と言っても、時々踊っていましたからね、アンディーと言う人は。アンディーと言う人間は、周りをよく笑わせていたのです。ただ、彼の踊りのテクニックは、これは断言出来ますが、抱腹絶倒ものなのです。何と言うのでしょうね、彼が生まれてから此の方、誰かにダンスを教わったとすれば、その教師は誰だろうかと考えるとですね、私に思い浮かぶのは、ジョン・クリーズ John Cleese [ ジョン・クリーズ - Wikipedia] ですよ。( 笑う )。 
 そうなんですよ、アンディーは、彼流のダンスをブームにしたかったのです。「マッシュド・ポテト」を書くことが出来ればね、屹度そうしていたでしょう。[ Mashed Potato : 1962年に大流行したダンス。ジェイムス・ブラウンの「 Mashed Potatoes 」のヒットで流行した。Mashed Potato (dance) - Wikipedia ]」 
バーンハート「( しばらく笑う )、お話しを続けて下さい。それは、パートリッジさんが「ちょっとこうしてくれ」と言われたことなのですか? それとも、このテクニックを使っている他の曲に、貴方自身が魅了されていたからなのですか? それとも…、」 
チェンバース「そうですね、あの曲の当時ですが、二度ほどのドイツとヨーロッパのツアーを終えたばかりの時でしたから、ちょっとヨーロッパ風味があるのではないかと、思います。ドイツでは、あの様な機械的なディスコが出始めていたのです。一つ思い浮かぶのは、カン Can ですね。ドイツのバンドですが、アンディーには大きな影響を与えています。カンは、とても機械的ですよね。ドイツのディスコ曲の多くはとても規律正しいのです、とてもドイツ的ですよね、他にもっと良い言い方がないので。正確なのです。曲が始まって、かっきり三分で終わります、そう言うものなのです。三分と言うのは、ラジオで放送される時間なのです。それに、イーノとボウイがドイツでたくさんの仕事をしてましたし、ケルンでは何か新しいシーンが進行中の様でしたので。そう言うものに、アンディーは興味津々だったのです。 
 私は思うのですが、いくつかの曲、その一例が「 Meccanic Dancing 」ですけれど、それらは多分、ヨーロッパで聴いたものの結果なのでしょう。商業的な見地から、これらの曲を作っていったのではないです。聴かれれば、「商業的な自殺だ。」と言われるでしょうからね( 笑う )、でも、ヨーロッパの影響は見て取れると思いますよ。」 
バーンハート「成る程そうですか。もう一つ、この「 Meccanic Dancing 」の時期に於いての奏法で私が気が付いたことがあるのですが、それは、後になって、貴方の奏法で他より以上に目に付く様になるものなのですが、ある一つのパターンを取ると、そのパターンから全く離れることなく、曲全部をそれで押し通してしまうのです。」 
チェンバース「そうですね。それもまた同じことなのです。間を空けると言うことから起こっているのです。レコーディングを少しばかり経験して来たのですが、アンディーは、最初に自分自身どうするかを正確に把握していなくても、間を取ったドラムのパターンを演奏して録音しておけば、レコーディングの後の段階になって、思い付いた楽想を加える余地があるのだと言うことを経験から学んで来たのです。もし私がドラムのフィルを演奏して、曲のどこかでそれを先に録音してしまっていたら、後になってアンディーが他の考えを思い付いたとしても、それを入れる余地はあまり無いと言うことになるのです。そう言う次第で、ある特定のパターンに決まってしまったのです。アンディーはよくこう言っていましたよ。「この曲をやろう。で、ちょっと空きを残しておこう。後で何かする代を残しておくんだ。」 実際には、それはステージで答えが出されましたね。その幾つかを集めてスタジオに持ち込んだのです。「思い付いたものはやってみよう」と言う遣り方でした。 
 曲の大枠は出来ていたのですし、歌詞も出来ていました。でも、アンディーは、どうしても、二、三の選択肢を決めないままで取って置きたがっていたのです。選択肢は、制約を掛けることで残せたのです。それが私のドラムがしていたことなのです。私は、「制約」と言いましたが、言葉の最善の意味で使っている積りです。この曲を録音するのに、「バン−カシャン~ドン」をずっとしていたならばですね、アンディーは、必ずや、あちらこちらを取り除こうとしたでしょうからね。そう言うことはしなかったのです、そうではなくて、アンディーは、いつもこう言っていました。「そうだなあ、アイデアはあるんだよ、ここでキーボードを使って見るとかね、でも、キーボードがピッタリと来るかどうかは分からない、だからね、これだけは録音しておこうよ、僕がこうしたいと言うリズムだけは分かっているんだ。それでねえ、ちょっとだけ後からパーカッションを入れる余地を残して置かなくっちゃね、曲のどこかのリズム・セクションでシャッフルが要るかもしれないだろ。」 そう言う進め方だったのです。今思うと、その進め方だから上手く行ったのでしょうね。そうですね、私に関しては、兎も角も、上手く行ったのです。その時には、「ああ、まあ、それなら受け入れられるわ。」と私は思ったものでした。」 






バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3、ここまでにします。 
誤訳、疑問点を指摘して下さると助かります。  



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2019年06月10日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の5

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の4: ノエルかえる不恵留





バーンハート「パートリッジさんは、アメリカのバンドが大好きでしたからね。」 
チェンバース「そうです。実際、アンディーは、コリンや私よりも、ずっと大きくアメリカのバンドに影響されているでしょう。アンディーと言う人は、何と言うか、私にはよく分からないのですが、アメリカのものに接する機会が多かったように思うのですが。貴方はご存知ですか?」 
バーンハート「ええ。そうですね、彼はレコード店で働いていたのですよね、違いますか?」 
チェンバース「おや、彼がレコード店で働いていたかどうかは知らないですよ。私が知っているのは、当時彼は絵を描くような仕事をしてましたよね、何と言うのでしょうね、ラベルを描くとかそう言うような類ですね。それを何と呼ぶのか知らないのですが。」 
バーンハート「グラフィック・デザイナーでしょうね。」 
チェンバース「ああ、そう言うのですね。彼はアメリカものに夢中でしたね、そう覚えています。それに、アンディーはカレッジに行っていましたから、そこの友人たちはアメリカからの輸入ものに大変に影響されていたのだと思います。もう夢中でしてね、コリンや私に、屡々、アメリカのものを紹介していましたよ。それで到頭、ウェールズの町外れで、ジョニー・サンダース Johnny Thunders の前座を務めることになったのです、本当ですよ。ニューヨーク・ドールズではありませんでした。ジョニー・サンダースがギタリストになっていた、ハートブレイカー Heartbreakers です。彼と、ニューヨーク・ドールズのドラマーだった、ジェリー・ノーランがいました。他のメンバーは、今はもう忘れてしまいました。ハートブレイカーの前座をやったのです。パンク時代ですね( 皮肉っぽく言う )。ウェールズのランドリッドの外れででした。[ 1977年6月25日に、ランドリッドの Grand Pavillionでライブがあった。About Us | Wales | Pavilion Mid Wales ] 記憶が正しければ、他から隔絶した場所で、どうしようもなかったですよ。彼らと私たちの時間の無駄でした。それに彼らの金を無駄にしてしまったのです。」 
バーンハート「( しばらく笑う ) そうですか。では、モールディングさんが貴方についての思い出話しをされたのを、ここで私が話して貴方を驚かせるのを勘弁してくださいね。ウェールズについて話されたことがあるのです。まだ若い頃、ヴァージン社と契約をされる前のことです。 XTC は、ウェールズの「谷間の華やかな場所の一つ」の場所で演奏したそうなのですが、Cuma Pioneer Club とかそういう名前のクラブです。モールディングさんの話しでは、本物の労働者のクラブだったそうで、大酒飲みが大勢いたそうです。それでですね、一セットが終わった後、貴方は、いかにもロック・スターの様な行為をされたそうですね。ドラム・スティックを客席に放り投げたのだそうですが。」 
チェンバース「ああ、貴方はクラブを思い違いしている様ですよ。Tonypandy Worker’s Club だったと思います。それで私は、ある男性の…」 
バーンハート「ええ、話しの続きはですね、貴方は何が起こったかを知らないままステージを降りられたのですね、すると、クラブの支配人が、突然に貴方を更衣室へ押し込んだというのです。実は、貴方は、ある偉丈夫の炭鉱夫のビールの杯を割ってしまっていたのですね、その男は機嫌を損ねて、楽屋の方へ押し進んで行って、貴方に…」 
チェンバース「ええ、本当の話しです。その男と取り巻きが遣って来て、「ドラマーを出せ」と叫んでいました( 笑う )。」 
バーンハート「( 笑う ) それでモールディングさんの話しでは、…」 
チェンバース「あの陸でなし達はですね、彼らもですよ、私を外へ出そうとしたのです、同じ様に「ドラマーを出せ」と言ってですね( 笑う )。あわや、私を押し出そうとしたのです、なんて連中だ。」 
バーンハート「モールディングさんは、「私たちは最後まで彼を出しはしませんでした。でも、そうしようと思わなかった、と言うことはないと思います。」と話されていましたよ。」 
チェンバース「( 笑う ) チェッですね。連中は、貴方が一緒に塹壕にいたいと思う様な者達でしょうかねえ、貴方を一緒に缶詰にしましょうか。あの日に、私は、バンドの他のメンバーの性格と言うのをちょっとばかり知ることになりましたね。それをお話ししますよ( 笑う )。」 
バーンハート「それでも、モールディングさんの話しでは、最後には貴方は出て行って、その男と話して、友人になったそうですね。貴方が一杯ビールを奢ったそうです。」 
チェンバース「ええ。凡そそう言うことだったと思います。場を鎮めたのだったと思います。」 
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2019年06月07日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の4

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の3: ノエルかえる不恵留





バーンハート「( しばらく笑う )、私は思うのですが、すべてのドラマーは、受けた様々な影響のすべてからとったスープの様なものでしょう、それは一般的な場合ですね、貴方の場合、その影響のすべてを入れて混ぜてしまっているのでしょう、でも、結局は、何か違うものになっているのですね、そう思います。そして肝心なことは、貴方の場合、多々見受けられるのですが、材料の味が、まだ、そのまま出ていると言うことなのです。それがですね、私にとっては幸いなことであったのだと思うのです。と言うのはですね、貴方を手本にドラムを叩いていると、そうした「間の取り方」であったり「様々なドラム奏法、流派」であったりが聴き取れたと言うことです。それはどうしてかと言えば、私自身が、ビル・ブルフォードやカール・パーカーそれに初期のフィル・コリンズを聴いて育ったからなのですが…」 
チェンバース「そうですか、私の場合は、結局は、彼らを聴くのを止めてしまいましたけれど。「わかった、僕は彼らの様にとんでもなく上手くは絶対に成れない、もう、自分の道を行くことにしよう」と、その時に思ったのですよ。( 笑う )。それに、「僕ら彼らから引き出すことが出来るものはもう全部学んだんだから。」とも思いました。( 笑う )。私が彼らに追いつくと言うことは一度も起こりませんでしたね。「よし、この奏法を克服したぞ」と私が思う度にですね、彼らは新しいアルバムを出すのですが、そこでは、さらに新しいレヴェルの奏法を使っているのですから。私は決して彼らに勝つことはなかったですね。( 笑う )」 
バーンハート「( 笑いながら ) 仰ることはわかります。こう言って慰めになるかどうか分かりませんが、1980年のブルフォードさんのインタビューの記事を私は覚えているのです。ちょうど、キング・クリムゾンが再結成した時ですね。アルバム『 Discipline 』を発表した時です。記者たちは、ブラフォードさんに、その当時の時点で、興味を持って聴いているアルバムを五枚挙げて欲しいと尋ねていたのです。その五枚のうちの一枚が、『 Drums and Wires 』でした。」 
チェンバース「( 驚いて、言い淀む ) 冗談でしょう。」 
バーンハート「いいえ、冗談は言ってません全然。」 
チェンバース「君…、それは何だか、自分で自分の耳に息を吹きかけてこそばゆい思いをしている様ですよ。如何言う単語を使えばいいのでしょう…、ええと、「信じられない!」」 
バーンハート「( 笑いながら ) サッカーのターンアラウンド・キックの様でしたか? [ ボールを取って前に進む時、不意に振り返って蹴るプレー。チェンバースから見れば、常に背中を見せて前へ進んでいたブルフォードが突然振り向いてボールを蹴って来た、と言うイメージ。 ]」 
チェンバース「そうですねえ、なんと言うか…、彼の方、あの一流の人物について語る資格など私にはありませんよ! あのお偉いお方は生き神様ですよ! つまりですね、彼がギリシャ人だったら、確実に神になった人と言うことです。」 
バーンハート「先ほど、その様なドラマーたちが実際に演奏するのを見て、貴方は気持ちが挫かれてしまった、と話されたのですが、それは私も同じ様な思いをしました。その様な演奏を見ると、一方では、自分もと思ってとても奮起するのですが、一方では、ドラムスティックを二度と持ちたくなくなるのです。」 
チェンバース「怯んでしまうのです! 私はとても幸運でした。ドラマーがアラン・ホワイトに交代する前のイエスのライブを観たのです、ブルフォードがイエスで演奏していたのです。三枚目のアルバム『 The Yes Album 』から四枚目の『 Fragile 』に亘っての頃です。」 
バーンハート「私は、イエスで演奏するブルフォードさんを観たことは一度もありません。特別なものだったでしょうね。」 
チェンバース「君、それはそうでしょう。それで、最初に観た時には、キーボードがトニー・ケイでした。二度目では、リック・ウェイクマンに変わっていました、『 Fragile 』を演っていたのですね。それで、何を言えばいいでしょう? [ トニー・ケイは1971年3月リリースの『 The Yes Album 』に参加した後、ツアーにも参加して、1971年7月に脱退。ウェイクマンは、同年8月の 『 Fragile 』のリハーサルから参加。]」 
バーンハート「ええ。名立たる編成ですね。」 
チェンバース「ああああ、何と言うか、私はいまだに彼ら Yes のCDを買っているのですよ。私の妻は、その手のものは全く嫌いですけれどね。妻はマイケル・ボルトン Michael Bolton [ マイケル・ボルトン - Wikipedia ]を好んで聴いています( 笑う )。まあ、私はですね、ビールを二、三本持って、ソファに深々と座って、そう言ったものをプレイヤーにかけるのです。私だけの世界に浸ると言うわけです。まあ、雑音は入るでしょうけれど、基本的に私の世界ですね。Yes が好きと言うだけなのです。今でも好きです。今でもですよ。70年代のアルバムが、私にとっては、今でもやはり、気を惹くものなのです。 
 実際、これまで私はイギリスの音楽の影響だけを話して来ましたけれど、影響を受けたのには、アメリカのバンドもいます。そこは公平に言わなければなりませんね。例えば、グランド・ファンク・レイルロードとかエドガー・ウィンター Edgar Winter 等です。「 Framkenstein 」は、常時、ターンテーブルに載っています。[ Frankenstein (instrumental) - Wikipedia ] グランド・ファンクのライブ・レコードなどは、カイがいつも聴いていますね。あのドラムのソロですが…、名前は、何でしたっけ? ブレウスター? ブレワー?」 
バーンハート「ドン・ブリューワー Don Brewer だったと思います。」 
チェンバース「そう、間違ってはないですよね。本当に素晴らしい。あれも、三人編成でしたね。[ グランド・ファンク・レイルロードの『 Live Album 』( 1970年 ) は、三人編成で録音されている。Live Album (Grand Funk Railroad album) - Wikipedia ]」 
バーンハート「ええ。それに、歌うドラマーでもあります。」 
チェンバース「なんてアルバムなんでしょうね。素晴らしい。ジェイムス・ギャング[ James Gang - Wikipedia ]も大好きなのですよ。たくさんあるバンドの名前を思い出そうとしているのですけれど、すみません、多くを忘れてしまっています。でも、好きな、影響を受けたアメリカのバンドもたくさんあったことは確かです。モントローズ、サミーヘイガーがいたバンドですね、彼はギタリストですが、でも素晴らしいのです。ニューヨーク・ドールズ、ルー・リード、…、」 
バーンハート「成る程。そう言ったアメリカのバンドは、貴方たちの初期の頃に大きな影響があったのですね。」 
チェンバース「ええ。」 

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2019年06月03日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の3

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の2: ノエルかえる不恵留





バーンハート「その通りですね。そうすると、私には二つの設問が投げ掛けられるように思われます。一つは、ダブル・キックが XTC の音楽に於いて上手く機能するのかどうか、と言う設問です。おそらくは、「不可」でしょう。もう一つの設問は、一方で貴方自身はダブル・キックを使うことに興味を持っていたのではないか、と言う設問です。おそらくは、「是認」でしょう、違うでしょうか?」 
チェンバース「ええ、そうでしょうね。アンディーは顔を顰めたでしょうね、そう思います。アンディーはドラム・キットが大きくなるのを良しとしなかったからです。ご存知でしたか? ( 笑う ) パーカッションには、こまごましたガラクタがたくさんあると、アンディーはいたく喜んでいました。それとか、微妙な感じの出せるもの、小さなシンバルとか、二個一組のロト・トムとかが好きでしたね。一方で、バス・ドラムが大きくなっていくことは望んではいませんでした。ドラム・キットと台座がどうしようもなく嵩張るのが嫌だったのですね。まあ、アンディーはドラム・キットがステージで占める空間を抑えたかったのだと思いますよ。( 笑う ) 「後生だからさ、もう持っているものだけで間に合わせろよ。」と言ってましたね。」 
バーンハート「( しばらく笑う ) 全くそうですね。彼のドラムズに関する全般の考え方について、私に話してくれたのですが、その中で彼がよく言っていたことの一つに、彼は努めて間隙を見つける様にしている、と言うことでした。その間隙を活かすのだと言うのです。その事は、 XTC の曲を聴けば明らかです。それで詰まり、貴方は、ドラミングに…、」 
チェンバース「ええ。」 
バーンハート「間隙を残すのですね、そこに、パートリッジさんのギターかヴォーカルが入るのです。貴方がフォービートを叩いているのに対して、彼は、細かい三連符を入れるのですよね、それがヴォーカルだったりギターだったり、他の楽器だったりはしますけれど。そう言うのは、ダブル・キックのバス・ドラムに合わせて入れようとすると、相当の困難さがあっただろうと思います。」 
チェンバース「ええ、全般的に、貴方の言われること、そのどれもに同意します。つまりですねえ、私と言うのは、アンディーを良く見せるのに専心して叩いていたのです。( 笑う )、それは違いますけれどね。でも、貴方の言われることは、全くその通りです。例えば、そう、先程では、ドラマーのサイモン・カーク Simon Kirke [ Simon Kirke - Wikipedia ]について言及するのを忘れていたのですが、ご存知ですよね、フリーやバッド・カンパニーで活躍した人ですが。」 
バーンハート「勿論、知っています。」 
チェンバース「[ 音楽の構造での ]空間ということでは、彼は後進のドラマーに大きな影響を与えていた、と私は思いますよ。私のドラミングではそうした空間性は聴き取れないかと思いますが。でも、意識下では彼のドラムがあったのです。貴方が、間隙や切れ間を置いておくと言い出された時、私の頭に最初に浮かんだのは、彼なのです、本当に。」 
バーンハート「私は、貴方のドラミングにしっかりとそれを聴き取れます。」 
チェンバース「そうですか?」 
バーンハート「ええ。素晴らしいことが一つあるのですが、それは、そうですねえ、私はずっと貴方のドラムを手本に演奏して来ているのです、XTC のアルバムをカバーしているのです、おそらく、他のどのドラマーよりも XTC の曲を多く演奏していると思います、それですから、素晴らしいことというのは、また、ちょっと可笑しなことでもあるのですが、お分りいただけるでしょうか、今私がここに座って貴方とドラムングについて語り合うということなのです。」 
チェンバース「( 笑う ) ええ。」 
バーンハート「貴方の影響はとても大きなものなので、貴方のドラミングの幾つかはもう私にとっては内面化している様に思えるのです。」 
チェンバース「トッド君、君に必要なのは、私という中継者を飛ばして、先に私が話したドラマー達を注意深く聴くことですよ。( 笑う )」 
バーンハート「それは、もうしました。」 
チェンバース「何か繋がりを見つけましたか? と言うのはですね、私がしたこと、私が必死に得ようとしたことと言うのは、その繋がりを見つけると言うことだったからです。貴方が結局見つけたものと言うのは、私が先に話したドラマー達すべての混淆なのですよ。「繋がり」は私をどこへ連れて行ったか、それは神のみぞ知ると言うことでしょうか、ああ、一つ言えますね、大地の底へ連れて行ったのです。( 笑う )、文字通りですね。私は、私のドラム奏法を辺境の植民地の貴方の頭に叩き込んだと言うわけですね。嘗ては、我が国がそこに人々を送り込んだのですが、私もまだ同じことをしたと言うことですね。[ 貴方:バーンハートさんはアメリカ人。 ]」  


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2019年05月28日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の2

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の1: ノエルかえる不恵留





バーンハート「この数日間ずっと、XTC のアルバムを聴いて、私は貴方の演奏のパターンを理解しようとしていたのですが、もう一つ気が付いたことは、貴方は常にトムを中心に据えている様に思えるということです。トムに頼ることをものすごく好まれている様なのです。普通でしたら、ライド・シンバルかハイハットを使う様なところでトムを使われています。どこで考え付かれたのですか?」 
チェンバース「よく気付かれましたね。あれは、熟考の上に選んだものだったと思います。それに、通常のハイハット、スネア、バスドラムといった定式から離れるというのは、バンドで決めたことだったと覚えています。「止めて、ここはコーラスじゃないか、それなら、ここでライド・シンバルを打たなくては行けないだろう。」その様なこと何もかもとは距離を置こうと決めたのです。コーラスでライド・シンバルと言うのは、決まり切った事の様に思われていますよね。でも、私たちは、道を外れなければならないのじゃないだろうかと思ったのです。時には、私たちもその定式のドラムズをしています。「 Neon Shuffle 」「 Atom Age 」はそうですね。あれは、ライド・シンバル/ハイハットの組み合わせでとても上手く行っています。でもそれは、曲そのものがとても優れているからで、通常ではないドラムズにする必要もなかったからだと、私は思います。ですが、他の面もありますよね。けたたましい消防車の鐘でなくて、古臭い定式なのですから、少しばかり曲の出来栄えを下げていたのかもしれない、と私は思います。ですが、私たちはあれを完全な踊れる歌にしましたよ! ( 皮肉な笑い方で笑う ) 本当です。 
 つまりですね、あの歌はコーラス部分がどこなのかすぐに分かる、と言うことです。「ああ、彼はライド・シンバルを叩いているぞ、それなら、ここがコーラスに違いない。」と言う分けです。でも、私たちは、聞き手がそこが何なのか分かり難くしたかったのです。「ちょっと待って、彼はコーラスをやっているの、ヴァースなの? 分からないなあ。いったい彼はどこをやっているんだ?」と言う風にです。それにです、恐らくは、バンドの他のメンバーにとっても分かり難いものになったでしょうね( 笑う )。又はですね、この歌をカバーしようとしている誰にとっても分かり辛いのでしょうね。」 
バーンハート「( 笑いながら ) ええ、そうです。貴方は、聴衆に緊張を強いているのです。」 
チェンバース「ええ、ええ。」 
バーンハート「さて、貴方は、キック・ドラムを使うのもお好きですね。例えば、「 The Rhythm 」ですが、キック・ドラムでこの様にしています。( 口でエイト・ビートのキック・ドラム真似る ) ダブル・キックをしようとは考えなかったのですか? 或いは…、」 
チェンバース「いえ、いえ、全く。『 English Settlement 』の後のアルバムも、私たちが一緒に仕上げていれば、とは思いますけれど。そうですね、一緒に仕上げると言うことも有り得たことではあるのですがね。その場合はどうだったでしょう。ですが、アンディーは、ダブル・キックを使う様な構成にはまるで関心がないのです。貴方がご存知かどうかは分かりませんが、アンディーと言う人は、基本的に、フォー・ビートとエイト・ビートの人なのです。本当です。彼は、基礎を単純なままにして置きたがる人なのです。そうすると、その上に重ねて実験的なことをする余地が出来るからです。ダブル・キックを使う様なリズム構成には、三人編成のバンドが適していますよね。私たちの当時のバンド編成といえば、ギターが二本で[ ベースギターも、ギターに数えている? ]、キーボードがあって、ヴォーカルは三部編成でしたし、ですから、ダブル・キックをたくさん使うアレンジメントにすると、入り乱れて収拾がつかなくなるでしょう、私はそう思うのです。それは、私の意見の一つです。私自身、それには反論もあるのです。ディープ・パープルはダブル・キックで素晴らしい作品を作っていますし、シンリジーだって、他のどのバンドでも、上手く使っていますから。弁明のために私が言えることは、私たちは異質な歌を書いていた、と言うことだけです。」 



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2019年05月23日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート3 の1

 トッド・バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー。
 タイトルは、「 Senses Working Over Time (or, How Terry Chambers learned to stop worrying about XTC and love the drums again) 」。 
 初期の曲について。

Chalkhills: "Senses Working Over Time", July 5, 2002

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の1: ノエルかえる不恵留

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の1: ノエルかえる不恵留





バーンハート「初期の歌について少しでもお話しくださいますか? 貴方が初めはどうしたか、年月を経てどのように変化していったか、と言うことを伺いたいのです。初期の歌で私が気が付いていることの一つは、多くの歌でそうなのですが、ビートのある音のすべてで、貴方はスネアを叩くことを選択していると言うことです。キック・ドラムと合わせることで、スネアを引き立てようとしているように思えます。「 Science Friction 」「 She’s So Square 」「 Hang on to the Night 」などです。[ 口で真似てみせる。 ] 何をお考えだったbのですか?」 
チェンバース「難しい質問ですね。と言うのも、それらは、私にしてみれば、自動的にそうなったものと思えるからです。ちょっと話して見ましょう。歌を書いたのが誰であってもですね、アンディーでもコリンでもと言うことですが、いつもこう言っていました、「ねえ、分かってる? 君がドラマーなんだけど、ブープ・バップ、ブープ・バップって叩くけど、僕は、バップ・ブープ、バップ・ブープってしたいわけ。」、私が言っている意味がわかりますか? それから、コーラスかブリッジ、あるいはソロのパートに差し掛かると、大抵はこう言うのです、「今までのと反対にしてほしい。」、時には、試して見た後こう言うのです、「どうかなあ? コーラスでやったことだけど、あれをヴァースでやってみたら?」。私達は、曲を最小の単位まで完全に細分化するのです。多くの場合、実際に演奏しているのは単純なリズムなのです。たぶん、正統なドラムではないのですけれど。 
 例えば、「 Making Plans for Nigel 」について見てみましょう。とても単純なリズムなのです。けれど、ひっくり返っているのです。普通のドラマーが、このリズムをハイハットとスネアとバスドラムで叩くとすれば、多分、こうなるでしょうね( 口で真似る )、 ハイハットは、八拍叩くでしょう。でも私が八拍叩いているのはフロア・トムなのです。実際には、至極簡単なリスムなのです。二拍毎にバスドラムが入って区切っているのです。こやって分析していくのです。違った視点から単純なことを見るのです。普通のそのまま演奏すると言うのではなくて、違った視点から試すのです。 
 私が覚えていることから言えば、「 Making Plans for Nigel 」を私は全く普通に叩くことで始めたのです、実際に。ハイハット、スネア、バスドラムと言うことですね。それで、コリンが「僕はもっと低くしてほしい。」と言ったのだったと覚えています。それで、ひっくり返してみたのです。実際に誰がそのリズムを決定したのだったか、私は覚えてはいないのですが、ハイハットではなくてフロア・トムを叩くことを私は始めたのです、そこから発展していきました。 
 そう言うことなのです。基本的に重要なのは、少し違った遣り方で全く簡単なリズムを考えてみると言うことなのです。「普通の四つ打ちにするのではなくて、もう少し面白いものに僕たちは出来るのじゃない」と言う様なことですね。聴衆の方達が、私達はおそらくディーヴォ DEVO のしたことと同じ方法でリズムに大躍進を得たのだと思われるかと思うと、とても嫌でした。ディーヴォの諸君は、彼らで、実際にあのリズムを考えたのだと、私も思います。けれども、彼らがして見せて開けた領域で、私たちが自分たちのリズムを考えたと言うことはないのだ、と私は言いたいです。」 
バーンハート「それはつまり、貴方達はスタンダードなリズムを踏襲するのだけれど、ほんの少し変える、同じ次元のリズム構造に於いて変えると言うことですが、そうしたらどうなるかを見てみたかった、と言うことですね。」 
チェンバース「ええ、そうです。変異の為に変えたのではありません。そうでしょう、殆どは、ハイハットとスネアとバスドラムで構成しているのですから。簡明な構成です。ですが、当時はそれが合っている様に思えたのです。そうですねえ、例えば「 Crosswires 」、( ビートを口で真似る )、ハイハットのパターンは( 口で真似る )、カウベルで叩いても良かったかもしれませんよね。あるいは、キーボードで鳴らした方が良かったかもしれません。他の何にでも置き換えられたのではないでしょうか…、分かりません。作品にするのに大慌てだったのです。認めます、あれは、私の好きな歌の一つではないのです。本当に言い難いことなのですが。( 笑う )。きっと許して下さいよ、二十何年前の録音ですからね。忘れてください!」  



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2019年04月24日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の4

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の3: ノエルかえる不恵留





バーンハート「成る程。では、いくつかの歌についても話して下さいますか。本当に、私は貴方の頭の中に入ってみたいと思っていますよ。それに、ファンは、もちろん私もファンの一人ですけれど、曲に取り組む時に、貴方がどうやって理解していくのかに、とても興味があると思うのです。」 
チェンバース「リハーサルについては、私たちは、いつも、一日を予約していました。それで、私はといえば、全くの白紙状態が常でした( 笑う )。私は、本当に何の考えも持たずに、ただそこに行くだけでした。全方位に開かれた視座を持って臨むというだけです( 笑う )。特に、下拵えも何もない時には、そうでした。大抵は、アンディーがコードをいくつかボロンと鳴らして聞かせたのです。後になると、アンディーもコリンも、それにデイブも、ああ、もちろんデイブの加入はまだ少し後ですけれどね、兎も角、後になると、一緒に始める前に、皆それぞれ自宅で既に始めていて、何某かのものを作って来たのですが。それで、私は曲を聴く最後のメンバーということになっていました。曲作りがどれだけ進展しているのかを見ようという積もりは私にはありませんでした。二人のギター奏者が一緒にいたわけですけれど、彼らは、周りで大きな音を立てて欲しくはなかったのです。私は、隅に座ってタンバリンを叩いたり枕を打っていたりするようなことは、決してしませんでした。そうすれば、私は彼らを苛立たせることになっていたでしょう( 笑う )。 そうすれば、進展は愚図愚図と遅れて、状況は劇的に悪化していたことでしょう。私の取る最善の方法は、おそらく、彼らが、曲がバンドで合わせるのに十分な程に仕上がったと看做すまで、「ほら、こんな感じになるんだ」と言うまでは、離れていることだったのです。それから、私が、それに必要なものを付け加えていったのです。アンディーはこんな風にいっていました。「これにはアフリカ的な感じが欲しい。」「自分が沈むボートにいると思ってくれ。」とか、そんな風にでしたね( 笑う )。 」 
バーンハート「初期のアルバムの頃には、巡業の時に、まあ大抵は、貴方達は同じ部屋にいたのでしょうから、その時に多くの歌を推敲していったのだと思うのですが、あるいは、サウンドチェックの時とかですけれど。」 
チェンバース「そんなことは殆んどなかったと思いますよ。巡業の移動中に出来たものは殆んどないです。本当です。その時間に何をしていたか、理解しないといけませんね。アンディーは、いつも、公演旅行はさっさと終えて家に帰りたがっていました、本当にそうなのです。歌作りは、彼の寝室か、裏庭、その辺りに限定していましたよ。そこで、伸び伸びして、本を読んで、そうして自分の作品を書いていたのです。「 On the Road Again 」的な歌はないですね。[ 「 On the Road Again 」と言う題名の歌は、ボブ・ディラン、ラヴィン・スプーンフル、キャンド・ヒート等にある。 ] 何曲か、ツアー中に出来た歌があるかもしれません。そう言う時は、彼らは、「頭の中のノートに書き留めておこう。」と言うのです。実際に、移動中のバスの中で書いていたと言うことはなかったと思いますよ。」   




パート2はここまでにします。
誤訳、疑問点を指摘して下さると、助かります。 


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2019年04月20日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の3

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の2: ノエルかえる不恵留





バーンハート「バリー・アンドリュースさんがバンドに入って来た時というのは、どんな感じでしたか?」 
チェンバース「アンドリュースは、バンドの他の者たちよりも少しばかりパンクでしたね。彼の物の見方というのは、ロンドン風の見方だったのです。そうですね、私たちがロンドンに背を向けていたと言うことは実際にはないですよ。流行はロンドンで始まっていたからです。それで、「うん、この男の面は正しい方向に向けられてるな。」と私たちは思ったのです。ちょっと、革ジャンを着たラモーンズのイメージもありました。私たちと言えば…、そうですねえ、正直に言って、どんなイメージもなかったですね( 笑う )。その頃です、私たちがやっとベルボトムパンツなしでいるようになったのは…、正直に言わなければなりませんね、その頃になってやっと、私たちはベルボトムパンツを捨てたのです。その頃は、ツナギを着てたのだったと思います。ちょっとだけですけれど、新しい局面に出た、と言うことだったのでしょうね。それなのに、アンドリュースは、レザージャケットを着て、ジーンズの膝には穴が空いていて、ズックで、ジョーイ・ラモーン風だったのです。 
 今思えば、アンドリュースはギター・プレイヤーになれば良かったのでしょう。それはですね、彼と言う人は、…( 笑う )、彼はいつもはっきりとしたイメージを持っていたからですよ。キーボードは、彼がステージで飛び回るのに制限を与えていましたからね。彼はですね、ステージに膝から落ちて、そのまま、ステージ上をツツーと滑っていきたいと考えていたのです( 笑う )。でも、セミアコースティックのアップライト・ピアノでは不可能でしょう。ステージ上で掲げたり投げ下ろしたりするのは、いくらなんでも重いですよね。そのことは、私でも貴方に教えられますよ。 」 
バーンハート「ははあ、貴方もきっと一緒に担がされたのですね。」 
チェンバース「そうです。その時には、誰もがトイレに行きたいと言い出すのです。「僕は行かなくちゃ、もう破裂する!」と言ってですね( 笑う )。私がドラムを選ぶ前に、父が言っていたことが正しかったと言うことの、一つですね。父は、あの時、将来に何が起こるか見通していたのですね( 笑う )。[ 父親風の喋り方で ]「まったくな、それがどんなに重いか父さんには分かっているんだ。」」
バーンハート「( しばらく笑う ) 正にその通りですね。お父様は、貴方の幸福をお考えになっていたのですね。」 
チェンバース「ええ。」
バーンハート「それから、貴方たちは独特なサウンドを作り上げていったのですね、そうして、『 3DEP 』を…」 
チェンバース「ええ。そうなったのはアンドリュースの影響がややあって…、いや、アンドリュースのキーボードによってそうなったものが多々あります。癖のあるキーボードです。例えば、エルヴィス・コステロのバンドに付き物だった様な独特なキーボードの音ですね。あれは、正にあの当時の時代の音ですね。当時は、二つのうちのどちらかだったのです。一つは、正調パンク、ピストルズとかダムドとかクラッシュといったバンド達ですね、それらはギター中心のバンドだったのです。もう一つは、パンクとは少し距離を置いたバンドたちです、私たちもそうでしたけれど、エルヴィス・コステロとかストラングラーズとかです、こうしたバンドにはキーボードがあったのです。当時はこの二つの選択肢があったのです、ギター・バンドか、ギターにキーボードがあるバンドか、と言うだけです、僅か二つの選択肢があっただけなのです。」
バーンハート「そうですね。でも、少しだけメロディックになりますね。」 
チェンバース「そうですねえ、少し説明させてください。当時はですね、もし、バンドがそれまでにキーボード・プレイヤーを持っていたらですね、そのプレイヤーをお払い箱にしていたのです。それがまかり通っていました、許されていたのです。と言うのも、キーボード・プレイヤーがいると、パンクぽくなかったのです。キーボードが弾ける程の知性があれば、本物のパンクではない、と言うことですね。( 笑う ) 「おいおい、待てよ、この男、正式な音楽教育を受けているのに違うないぞ!」と言うことになるのです。反対に、ピストルズの様なギター中心のバンドは、煽り立てるだけで、音が合っているのかどうかなどはお構いなしのことがままありました。キーボード・プレイヤーがいると、曲については、あれこれ注意しますからね。」
バーンハート「アンドリュースさんの際立った音に加えて、パートリッジさんの不協和音を入れるギターは本当に独特でした。そして、貴方とモールディングさんは、切れ目がはっきりと入っている、引き締まったリズム・セクションになっていました。ストップ・スタートが沢山あるのですね、それに、アクセント[ 強弱の差 ]も多いですね。」 
チェンバース「ええ。今思うとですね、あれは、アンディがああいう曲を書いていた、というだけだなのでしょうね。曲を注意深く聴いて下さると分かるでしょうけれど、あの様なリズム・セクションは実際に彼のギターに依っているのです。そうですねえ、「スタートとストップがぴったりと合わせられれば、タイトなバンドだということだ。」と言われてますから、実際、優れたバンドの多くはそれが出来ますよね、それが私たちの頭の隅にあったと言うことなのだと、今になると分かりますね。まあ、ある程度まではそう言うことだったのでしょう。バスドラムと同時にシンバルを叩いて瞬時に抑える、ご存知ですよね、それはよく知られた仕方ですね、( シンバルのチョーキングを口で真似る。) あるいはですね、バスドラムと同時に、閉じたハイハットを叩くのです。こうした奏法が、楽句の終わりに引き締まった感じをもたらすのです。「より鋭く締まっていれば、それだけ曲が良くなる」と言うことですね。 
 アンディは、曲をすっきりとさせたがっていたのです。今思うとですね、彼は、楽器が発する音については、一つの音が他の音と重なるのが嫌だったのでしょう。ちょっと整理された感じになるのです。ところで、あの当時、私たちは「 Dance Band 」と言う曲があったのですけれど[ Dance Band はモールディングの曲。 ]。何だか皮肉ですね、本当に。と言うのはですね、私たちが、ダンス・バンドになることはまずないことでしたから。まあ、聴衆が「痙攣」的なものに夢中ならば違うでしょうけれど。聴衆があの様な曲でどうやって踊るのか、私には分かりません。」
バーンハート「でも、パートリッジさんは、どの時期でも、「踊れる」曲を書こうとしていたのですよね? 例えば「 Spinning Top 」とか…」 
チェンバース「ええ。そうでしたね。彼はあれで聴衆は踊れると思っている様に見えましたね。私自身は…、彼がそう考えていたことが理解出来ないですけれど、」
バーンハート「「 Neon Shuffle 」も、ダンス曲を意識した…、」 
チェンバース「ええ、そうですね。「 Neon Shuffle 」はダンス曲だと、私も思います。「 Neon Shuffle 」を注意深く聴いて見て下さい。リズムに関してですけれど、「 Neon Shuffle 」は、フォー・トップス Four Tops [ アメリカのR&Bのコーラス・グループ:Four Tops - Wikipedia ] の歌に基づいていると、私は思うのです、フォー・トップスの歌のリズムを速くしたものではないでしょうか。そう考えると、私にもこの曲が理解出来ますね。もう少し考えを進めるのならば、スピードアップしたモータウン[ Motown - Wikipedia ]のリズムだと思います。」
バーンハート「それは興味深いですね。」 
チェンバース「基本的に、ビートにスネア・ドラムを叩くと言うものですね。」
バーンハート「四倍の速さと言うことは除いて、そうですね。」 
チェンバース「ええ、正にその通りですね。フォー・トップスの歌と「 Neon Shuffle 」が同じだと言う考えを飲み込もうとすれば、きっと相当痛い思いをしなければならないでしょうね、私はそう感じますが( 笑う )。でも、そのままを私がお話ししましょう。「 Neon Shuffle 」はフォー・トップスの歌に基づいているのです。こう言う感じで作っていったのです。例えば、古いチェット・アトキンス Chet Atkins [ Chet Atkins - Wikipedia ] の歌を取り挙げてですね。それからですね( 笑いながら話す )、それから何が出来るか研究するのですよ、逆向きに演奏してみる、輪唱してみる、とかしてですね、何か他のことが私たちに出来ないか、試してみるのです。 
 ちょっと別の面を話しましょう、いつも、アンディは、何らかのアイデアを持っていたのです。「ううん、考えてくれ、ここ、必要なのはもう少し…」とか言っていました。どう言う例がいいでしょうか、そうですね、例えば「 Millions 」です。あの歌には、中国的な雰囲気が必要なのです。歌が中国についてのものですから。そう言う訳ですから、小さなシンバルを使うことになって、しかも、小さな音を繊細なタッチで鳴らす様になって、と言うことなのです。こうして、歌の各パートを一つの全体にまとめる様になっていったのです。何を歌っているのか考える様になって、始め理解していたよりももっと深く歌を理解する様になっていったのです。 
 「 Millions 」の頃から、アンディーはもっといい歌を書く様になり始めたのだと、私は思います。速い歌か、遅い歌かと言うだけでなくなったのです、内容を持つ様になったのです。主題です。それから、もっと後の歌になると、『 English Settlement 』の頃だと、聴衆の皆さんは、例えば、「 Senses Working Overtime 」の様な巧妙に造られた歌を見出せる様になったのです。それは、初期のものよりもずっと精緻に造られています。聴き甲斐が出て来ました。少しは知恵も得たでしょうし、見聞が広がったでしょうし、題目について深く考える様になったのでしょう。」



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2019年04月17日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の2

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の1: ノエルかえる不恵留





バーンハート「カバーはしたのですか?」 
チェンバース「ええ、カバーをしましたよ。」 
バーンハート「どう言う歌をカバーそたのです?」 
チェンバース「ちょっと考えさせてください、…、ああ、先日、誰かが、パートリッジの演目のひとつが「 Fireball XL-5 」だったと思い出させてくれました。私たちはあの歌を編曲してやってました。」 
バーンハート「ええ、ボックス・セットに収められています。」 
チェンバース「あれがですか? へえ、それは気になりますね。と言うのも、先日、ある人と話をしたのですけれど、その歌は全く録音されることのなかった歌だと言っていましたから。じゃあ、その人の言うのは間違っていた分けですね。他の歌のカバーは? ( 暫く言い淀む ) ああ、困った質問をしますねえ。私たちがしたカバーについては、アンディーがもっといい答えをしてくれると想いますよ。何曲か有名曲をしたでしょう、( 黙り込む ) ああ、そうそう、「 All Along the Wactchtower 」はしましたね。ファースト・アルバムでしました、ね、カバーの一つです。」 
バーンハート「カバーをするときには、「 Watchtower 」でした様に、大幅な編曲をしたのですか?」 
チェンバース「そうですね、「 Fireball XL5 」の場合は違います。それ程、アレンジ出来る余地はないと思いますよ。レゲーでやってみるとかすれば別でしょうけれど。でもそうすれば、歌の価値を全く損なってしまうでしょうね、私の意見ですが。ただ、「 Fireball XL5 」を演奏すると言うことが、キーボードを入れることへの言い訳になったのですね。少し後になって、実際にキーボードが入ったのです。カートナー Cartner がその頃にバンドを抜けたのです。それで、私たちは、ジョン・パーキンス John Perkins を加えたのです、彼はキーボード・プレイヤーでした。その時に、キーボード・パートが私たちの編成の中に入ってきたのです。それでですね、「 Fireball XL5 」はキーボード志向の曲ですから、今、私の記憶から漏れていたのですね。その後、パーキンスもバンドを去りました。彼とアンディーの間には、音楽上の方向性の違いがあったのです。それで、結局、バリー・アンドリューズと一緒にすることになったのです。」 
バーンハート「カートナーさんが辞めたのはなぜでしょう?」 
チェンバース「カートナーは結婚したのです。コリンもその頃結婚したのですけれどね。カートナーの妻は彼にプレッシャーを加えていました。「今は正業の時間よ、住宅ローンもあるでしょう。バンドは、あなたが一生追い求めるものだけど、仕事の後よ。」と言ってですね。彼女が何を言いたいか分かりますか? 妻と住宅ローン、そうでなくて、バンド、どちらを取るのか、と言うことですね。カートナーは正業と住宅ローンを取ることに決めたのです。それで、ジョン・パーキンスと交代したのです。パーキンスはキーボード・プレイヤーだったので、それまでとは違う方向性を持つことになりました。私は、その頃、アンディーはギター・プレイヤーばかりと言うのに飽き飽きしてたのだ、と思います。「ねえ、どうして、こう言う面を試してみないんだ?」と言っていましたから。コリンと私は、それについてはただ呑気に構えていました。 
 けれど結局、パーキンスのキーボードはアンディーにとってはブライアン・イーノ性が足りないのだ、と言うことがはっきりして来たのです。あまり実験的でなかったのです。正統なワーリッツァ Wurlitzer ピアノの音でした。アンディーは、もっと冒険的なアートっぽいものを望んでいたのです。そう言う分けで、アンドリュースが入って来たのです。」 
バーンハート「成る程。そこのところをお話ください。私が伺いたいのは、音楽の方向性がその頃目に見えて変わっていると言うところです。私は、貴方達がスティーブ・ハッチンスさんと作ったデモを聴いたことがあるのですが、それと『 White Music 』とでは、とても大きな開きがあります。この変化は、貴方達が知らない間に効力を発揮するような何かがあったのか、それとも、「このままでは上手くいかない、何か新しいことをしなくてはならない」と話し合って起こした変化だったのか、どちらなのでしょう?」 
チェンバース「そうですね、私は、自然な推移だったのだ、と思います。各員がそれぞれの楽器の腕前を上げていましたから。バンドの総合体として向上していたのだと思います。それはつまりですね、各員が先行のミュージシャンの影響を持ち寄って一つにまとめていた状態から、次第に「自分たち」自身に成って行きつつあった、と言うことです。私たちは、私たち自身のサウンドを開発し始めていたのです。私は思うのですが、そのような「自身」のあるミュージシャンへ成長するのには3、4年は掛かるのでしょうね。あるいは、私たちが習得していくのが遅かったのかもしれませんね( 笑う )。当時、まだ、他のミュージシャンに影響されてましたから。私たちは、まだ、他のバンドを注視していましたし、曲を聴いていました、周囲のもの全てから影響を受けていたのです。それらすべてが、音楽の中に入り始めていました。」   



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2019年04月12日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の1

 トッド・バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー。
 タイトルは、「 Senses Working Over Time (or, How Terry Chambers learned to stop worrying about XTC and love the drums again) 」。 
 デビューの頃。

Chalkhills: "Senses Working Over Time", July 5, 2002

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の1: ノエルかえる不恵留





バーンハート「それで、貴方達は練習を始めて、それから、私は思うのですが、人前で…、」 
チェンバース「ああ、それには暫く間がありました。まず、取り組まなければならなかった問題は、どう言う種類の曲を自分たちは演奏するのか、言うことでした。それから、その他諸々についてもです。」 
バーンハート「どの歌をと、皆さんが考えていた時のことですが、その場合、兎に角、演奏してみたのですか? それとも、最初にそれらの歌について皆さんで話し合われたのですか? そうですね、誰かが新しい歌をグループに持ち込んできた時には、「これが私が考えて来た歌だ、どうしてそう考えたかはこう言う理由だ。」と言ったのか、「さあ、これを試してみよう、それぞれがどう演奏するか見てみよう。」と言ったのかと言うことですが。」 
チェンバース「オリジナルについては、殆どがアンディの考えたものでした。コリンは当時あまり書いてはいませんでした。まだ、自分たちの拙い演奏を鍛え上げていた最中だったのです。いつも、アンディが何かを弾き始めてました。でも、彼が「さあ、皆んな、腰を下ろして集中してこれを聴いてどう思うか言ってくれ、」の様なことを明確に言ったことはないです。確か、彼はあれこれ弾いていて不意に新しい曲を始めたのだった、と覚えています。それで、私たちはそれに従いて行って、曲を捉えたのでした。実際には、「さあ、僕はこれを始める、で、君らは、そこがポイントだと思うか、もう十分だと思ったら、演奏に加わってくれ。」と言っていたでしょう( 笑う )。まあ、当時、アンディはテンポは出来ていました。コードの構成は何となくでした。それで、私たちはそれに合わせてボロンとやっていたのです。それで、テンポがどうであるかに拘わらず、暫くは続けて演奏したのです。ある見方をすれば、何とか基本的な形にはなっていた、と言うことですね。それで、構成に少しは自信が出来たので、もっと面白いものを作ろうと始めたのです。「コーラスをもっと「アップ」にしょう」と言ったり、「ブリッジかソロを入れよう」と言ったりしていたものです。その時になって、私たちは、歌に構成を持たせ始めていたのです。私が思い出す限り、歌はその様にして作られていきました。アンディーとコリンは違う様に思っているでしょうね。兎に角、私が思い出せるのはそうなのです。アンディーとコリンが何を考えているかは、私には分かりません( 笑う )。」
バーンハート「( 笑う ) それですね、カートナー Cartner さんが、スターパークとザ・ヘリウム・キッズの両方で一緒だったのですよね。」 
チェンバース「ええ、その通りです。」
バーンハート「それで、その頃にはシンガーもいたのですよね?」 
チェンバース「ええ、ステーヴ・ハッチンス Steve Hutchins という人物です。アンディは、自分がヴォーカルの面では少々適性に欠けていると感じていたのでしょう。当時、アンディにはガールフレンドがいたのですけれど、その彼女が、知り合いに南ロンドンの歌手がいると言ったのです。それがハッチンスだったのです。私たちは、「それはちょっと地理的に問題がある。」と思いました。私たちが住んでいる所から、おおよそ80マイル離れているのですから。私たちはお互いに5マイルの範囲内に住んでいました。練習をしようと思った時、全員が15分か半時間で来られたのです。ところが、その人物の場合、練習をしようと思っても、例えば週末などに、予め決めておかなければなりませんでした。何故かと言えば、私たちがロンドンに行くか、彼が私たちのところに来るかしなければならなかったからです、それに加えて、当時はまだ、私たちは皆が、仕事を持っていましたから。 
 それで、彼はショー・ビジネスにいくらかの縁故関係を持っている人物だと言うことに惹かれたので、私たちは彼を入れることに決めたのです。「だね、この男を入れておいて、それで、デモが出来たら、この男がそれを然るべき筋に渡すだろう。」と私たちは考えたのです。何よりもです、彼はロンドンに住んでいるのですから。私たち三人の田舎者よりも、彼にはそれがずっと容易なのです。私たちと言えば、髪に藁くずが載っている様な人間ですからね。少なくても、彼は同じ言葉をしゃべっていたのですから。ロンドン人と私たちとでは言葉が違うのです。直ぐにまるっきり違っていると分かりますからね。( 笑う )
 ですから、二つの目論見があったのです。ヴォーカリストを入れると言うこと。それから、デモが出来た時には、彼が、ロンドンのいくつかの戸を開くだろうと言うこと、です。これは頭に入れておいて下さい。私たちのオリジナル曲を演奏する所は、スウィンドンには本当に全くなかったのです。あると言えば二箇所あったのですが、他の所は、エルビスとかそのあたりのもの、当時に流行っていた、ビージーズとか、いろいろ際限なくあるでしょうが、そう言うもののカバーを演奏している所だったのです。ディスコももう伝わっていましたよ。その類いのもの( ディスコビートを口で真似る )をするのでなければ、本当にどこにも演奏する所はなかったのです。」



バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の2: ノエルかえる不恵留
バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の3: ノエルかえる不恵留
バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート2 の4: ノエルかえる不恵留



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2018年12月13日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の8

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の7: ノエルかえる不恵留





バーンハート「成る程、そうなのですね。」
チェンバース「ああ、私は、当時の状況を分かって貰いたいのです。そうした状況が私の技術の向上を後押ししたのだと思います。何はともあれですね。他のメンバーに合わせなければなりませんでしたから( 笑う )。お分かりでしょう、ブラシを使う分けにはいきませんからね、当然ですよね。 
 それで、私たちは、パートリッジと演奏してみたのです。パートリッジは、やはり WEM を持っていました。( エフェクト・ボックスです。 ) テープ・エコーの様なものでした。彼がギターを弾くと、それが反復するのです。それで私も始めました。すぐに、「なんてことだ、僕たちもエコーの中に取り込まれているぞ。」と思いました。彼は、「その物」をギターとしてではなく音響装置として鳴らしているのでした。彼が、その時、ある程度でもギターが弾けたのかどうか、私は知りません。でも、その遣り方ではったりを効かせることは出来ていました。それで、「これはとても面白い。ワクワクする。」と私は思ったのです。それで、暫くの間、リフをガンガン鳴らしていたのだったと覚えています。上手く混じり合っていたと思いますよ。 
 それで、覚えているのはですね。彼は、私とモールディングを凝っと見詰めていたと言うことです。「この二人は、見た感じがすごく良いなあ。」と考えていたのだと思いますよ。当時、私たちがしていた格好がパートリッジにも好かれたと言うことですね。それに、私とモールディングは、まあまあの機材を持っていましたからね。それは、大きな加算になったのですね。壊れた機材でひどい音を出すよりも悪いことなどないですからね。その時までには、もちろん、私は二番目のドラムズキットを手に入れていましたから。 
 」 
バーンハート「どのモデルですか?」
チェンバース「プレミアのです。[ Premier Percussion - Wikipedia] まあまあのシンバルが付いていて、どうにか舞台映えしそうでした。それでです、装備に関しては、何とか形になり始めていたのです。まあですね。見た目に関しても、ちょっと目を惹き始めていたかもしれません。私たちは同い年でした、同じ年の12ヶ月の間に生まれていたのです[ モールディングとチャンバースは55年生まれ、パートリッジは53年生まれだから、12ヶ月以上離れているのだけれど ]。音楽的には、向いている方向はぴったり合っている様に思えました。それがとても嬉しく思えたのです。それで、その日を終えて、「来週もやろう!」と言うことになったのです。ここから本当に始まったのです。パートリッジは、デイブ・カートナー Dave Cartner と言う名前の人物を連れて来ました。パートリッジの学校の同級生だった人です。私以外の三人は、同じ学校に通っていたのです。私は、離れた別の学校に行ってました。それでです、これが、最初のバンドだったのです。」 
バーンハート「成る程、貴方は、コリンさんと演奏し始めた時には、意思疎通がぴったり出来ていると感じられたと言われるのですが。」
チェンバース「ええ。その時、私がどの程度の奏者だったかは、コリンの言を待たなければなりませんね。でも、まあまあちゃんと始まってちゃんと合って終わってた様に思いますよ。( 笑う ) 私たちはちゃんと合っていたと思います。とても上手く行くことがあるのです。本当に上手く行くのです。それはとても興奮させられることでした。一つのタイミングに二人が一緒に存在しているのです。「one, two, three, FOUR 」と言ってですね。まだデビュー前の未熟な時のステージででも、このワクワクするのは同じでしたね。そうでした。気持ちのいいものでした。」 








 バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビューは、この後もまだまだ続きます。バーンハートさんは、内容を章分けしてはいません。ただ、私が、ここまでをXTC 以前として、一旦区切りました。
 このまま続けてもいいのだけれど、ちょっと一休みしようかと。ブラックシーのノートか、モールディングの「 Frivolous Tonight 」のインタビューかをするかも。 


 どなたでも、誤訳、疑問点をご指摘してくださると、私は助かります。 

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2018年12月09日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の7

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の6: ノエルかえる不恵留





バーンハート「さて、バンドの舞台へと貴方が参入した経緯をお話下さい。ええと、聴衆の中の誰かであることから、ステージ上の誰かへの移行と言うことですが。」
チェンバース「はい。如何いう状況だったかと言えば、さっきも話した様にですね、まずは、屡々パブに通う様になったと言うことがあったのです。アップタウンには、長い髪の者を入れてくれるパブが二、三軒あったのです。そこで、音楽に関することを会話する様になったのです。それで、ステージ・ドア the Stage Door と言うパブだったと覚えているのですが、違うかもしれません、でもアップタウンにあったパブの一つだったはずです、そこである宵に、私はコリン・モールディングと出会ったのです。私たちは似た様な興味を持っていたのです。彼は長い髪でした。アリス・クーパー・バンドのベーシスト、デニス・ダナウェイに似せていたのだと思いますよ。その時、彼は、彼の人生の中で一番長い髪だったのじゃないでしょうか、貴方は思い描けますかね。( 笑う ) 髪をベルトの後ろに差し込めて入られたのじゃないか知ら。私たちは最新流行のものを着ていました。髪は、腰よりも二、三インチ下まで行っていました( 笑う )。「うん、此奴はいい感じだな。」と思いました。ビールも気にしなかったですし、そして分かったのですが、彼はベースを弾くのでした。つまり私の気を惹く三つが揃ったと言うわけなのでした。「1. この男はいい感じだ。2. この男はベースを弾く。3. この男はビールを飲む。」 側にいて、癇に障ると言う様なことはない男だったのです。そうして知己になりました。その時分には、私は従業員となって働きに出てました。バンブーガーズ Bamburger’s という会社に職を得ていたのです。ペンキや壁紙を売っている会社です。学校は退校しました。[ イギリスは制度が違うので、卒業資格を得られないまま終了ということだろう。 ] 学校から出て、最初の3ヶ月は、何もしないで失業手当をもらってました。本当です、その時には、私は、ドラムに心酔していたのです。それで、生計を立てる為に働きに出るよりも、自分が熱い視線を注いでいた人たちの様になりたかったのです。 
 その会社で働いていた時にですね、私の後から入社してきた人があったのです。私は長い髪をしていたのですが、何故会社が私を採用したのかは「神のみぞ知る」です。それで、その人が、「君のことを話してくれないか?」と私に話し掛けて来たのです。それで話し始めました。その人は、私が興味を持っていることは何なのか、と尋ねました。私は、「ドラムです。でも、練習しているだけです。」と答えました。すると、その人は、「そうなのか、私の甥はギターを齧っている。」と言うのです。その甥というのは、スティーブ・フィリップス Steve Phillips と言う名前でした。彼は、町をちょっと外れた所に住んでいました。彼の父親はパブを営んでいました。と言うことで話が進んでいったのです。当時、パブは、午後は休みでした。飲酒時間は制限されていたのです、イギリスではですね。それで、スティーブ君は、土曜の午後に来るならば、一緒に出来るよ、と言うのです。どうやって、そこに行ったのかは、今は思い出せません。多分、私のドラムキットや何やかや全部を自分のミニ・マイナー [ Mini - Wikipedia ] に詰め込んで、兄が連れて行ってくれたのだと思います。それで、行くことが出来たのでしょう。 
 スティーブ君はベース・プレオヤーを連れていました。彼の名前は、そうですね、「スリム Slim」と呼ばれていました。名前はブライアン・ミルズ Brian Mills と言うのでしたけれど。「 Mills 」のスペルを逆さまに読むと Sliim になるので、スリム Slim と言うのでした。( 笑う ) 私は、「さあ、面白いことになった。」と思いました。こうして、私の初めての体験が始まったのです。しかも、これまでとは別の角度から考察しながらの演奏になるのです。まさにそうなのでした。( 笑う ) 少しづつ、夢に描いていたことが形に成り出していたのです。その時もやはり、コリンとはあちこちで会っていました。彼も、他の人たちと色々と試行していたのです。それでですね、ある時、私はフィリップスに言ったのです。「僕はもう一人ベールプレイヤーを知っているんだけど、彼は参加できると思うよ。」 と言うのはですね、スリムはとてもいい人だったのですが、ある時は来て、次には来ないと言うことがあって、ちょっと信頼性に欠けるかなと言う具合だったのですから。コリンは、いいよ、と言いました。遣って来ました。それで、結局は、コリンと私とフィリップスがバンドになったのです。 
 こうして、事が進んで行ったのです。私とモールディングは同じ思いを抱いているように思えていました。ただ、それを言い表す適当な言葉がなかったのです。そう言う時に、彼は「僕は、パートリッジて言う人を知っているんだ、君は知ってるかい? いくつかのバンドで演っているんだけど。彼は、まるで異質のギター演奏をしているよ。その辺のつまらない連中をノックアウトしているよ。僕らは彼に会って見た方が良いんじゃないかな。」と言ったのです。それで、私たちはパートリッジと会う手筈を整えたのです。コリンの父親は、学校の用務員でした。学校は町のすぐ側でした。おじさんはコリンに、「これが一つの教室の鍵だ。君たちはそこに入って、用意が出来る。」と言ったのです。学校が知っていたかどうかなんて、私にはわからないですね。( 笑う ) とんでもない長髪の若造が、教室にいるのですよ、その上に、楽器類を持ち込んでいるのです。モールディングは、100ワットの WEN [ Watkins Electric Music - Wikipedia ]を持っていました。いつもそれで音を出していたのです。」 


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2018年12月04日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の6

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の5: ノエルかえる不恵留



バーンハート「貴方もその中の一人になりたかった?」
チェンバース「ええ、まあ。その中の一人にならなくては如何しようもなかったのです、兎にも角にも、形、姿だけでもですね。背中をドンと押される感じを受けて、ショーから帰ってくるのです、そうしてこう思うものなのです。「まったく、このドラムキッドではあんな大きな音は出ない。でも、あのドラマーはこうしていたぞ。」 そしてやってみるのです。( 裏返った高い声で ) バシバシバシバシバシ、バンバンバンバンバンバン、ブリリリリリズズズズズズップ!( 笑う )。勿論、如何見ても、体を成してないのですが、良い気分にはなりました。あの頃ですが、私の髪も段々長くなりつつありました。誰もが長い髪をしていましたからね。それで、「これで僕も一員になれたぞ。」と思ったものです。見た目も変わりました。学校の生徒然としていたのが、虚勢でパブに入るような輩に見えたのです。あの頃は、IDカードの類のようなものはなかったですからね。運転免許も持ってなかったですしね。そうですね、店が客で一杯かどうかに依っていましたね。でも、店主がビールを売りつける客を欲していたのなら、店に入るチャンスはありましたね。言い訳はちゃんとあったのですよ。( パブの店主の口調で ) 「ですがね、私には18歳に見えましたよ。」( 笑う )。」 
バーンハート「その当時、貴方のドラミングに最も影響を与えたのは誰だと、貴方はお考えですか? 貴方が言及したグループの中ででしたら、イアン・ペイス、ジョン・ボーナム、ビル・ブルーフォード、カール・パーマー、…、」
チェンバース「ビル・ブルーフォード、そうですねえ、ブラック・サバスのビル・ワードかなあ、シン・リジーのブライアン・ダウニーもいますねえ、ですが、誰よりですね、勿論、この人を挙げないといけません。ピンク・フェアリーです。[ Pink Fairies - Wikipedia ] 世界的な成功は得ることができませんでしたけれど。ホークウインド Hawkwind [ Hawkwind - Wikipedia ] とよく一緒にステージに出ていた、アンダーグラウンドのバンドなのです。当時、私は特権があって、数え切れないほど多くの回数、彼らの演奏を見ることが出来ました。スウィンドンのポリテクニック[ Polytechnic (United Kingdom) - Wikipedia / 第3期の教育 - Wikipedia ]でのことです。アンディー・パートリッジはそこの学生でした。バンドは二人のドラマーを擁していました。ラッセル・ハンター Russell Hunter とトゥインク Twink [ Twink (musician) - Wikipedia ] です。二人がドラムズを二重演奏して、しかも、二人がリード・ヴォーカルをとっていたのです。本当に大きな影響を受けました。ヘビーメタルの類からすれば、周辺の音楽と言うことでしょうが、ヘビーメタルよりももっと荒々しかったのです。彼らはヘンドリックスに多大な影響を受けていました。エコーを多用したギターとか、そう言うことですね。それに、私たちがこれまでに名前を出したバンド達よりも、随分とフリー・フォームな音楽をやっていました。そうですね、まず、普通に演奏をしてみるのです。それで、聴衆からいい感じの反応があったならば、歌を18分かそこらまで引き延ばすのです。「バイブレーション」が合ってればですね。また、観衆が興味を失ったと見て取れば、協和音に戻って、リフを再び始めるのです。そうしてから、終わるのです。( 笑う ) このようにですね、とても「エクスペリメンタル」なのです。4分間に決まっていて、きちんと構成された歌というのではないですね。」 
バーンハート「成る程、ジャズ哲学に近いのですね。」
チェンバース「そうです! 貴方はよくお分かりだ。でも、もっとヒッピー的な側面が強かったですよ。」 
バーンハート「パートリッジさんは、「 The Snake 」[ ピンク・フェアリーズの曲。 ] について話していました。あの曲がお好きだということでした。それに、デイブ・グレゴリーさんは、あの曲のギターのソロが彼の一番好きなソロなのだ、と話されました。」 
[ The Pink Fairies - The Snake / Do It | Releases | Discogs
ベルナール、パートリッジ対談「 Helicopter 」3: ノエルかえる不恵留]
チェンバース「そうでした。[ 息子の ] カイ Kai のバンドは、アンコールにこの曲を演奏していますよ。本当です。まあ、そこまで行けばですけれど、三番目くらいのアンコール用ですから、中々遠いですね。( 笑う ) この歌は伝承され続けているのです。本当に、一度は聴くべき音楽ですよ。」 
[ このインタビューは、2002年なので、カイのバンドは、Atomica だろうか? ]

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2018年11月28日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の5

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の4: ノエルかえる不恵留





バーンハート「成る程。ですが、それで、貴方は一式を組み上げることが出来て、ドラムズキットがどのように機能するのかを理解出来たのですね。」
チェンバース「ええ。ちょうどその頃ですけれど。学校でダンス・パーティーを催していました、そこに、二、三の地元バンドもいたのです。私たちはそうしたパーティーに通い始めてました、ちょっと遅くまで外出出来ると言う年齢になっていましたから。それで、私はいつも、バンドの人たちを観察していたのです。「ああ、これではっきりと正しい組み方がわかった。右手は左手の上を渡すんだな。左手はスネアを叩く。バスドラムは右足を使う。ハイハットはあそこ。二つのトムはあそこ。[ 二つの ]ライドシンバルは対称的に同じ位置にある。」と思いましたよ。初歩的な演奏用の標準的な組み方ですよね。」[ ドラムセット - Wikipedia ] 
バーンハート「成る程。貴方が如何言う道を辿ってドラムを始めたかを述べて下さったのですが、とても興味深いです。音楽的な面に於いてもですし、また、日常的な生活史に於いてもです。と言うのは、貴方は全くの独学ということですが、その為に、貴方はご自身で分析すると言う状態になる他なかったのですね。その分析は、誰かが貴方に教えると言う場合の分析よりももっと精緻なものになったのでしょう。」
チェンバース「ええ。考える様になったのです。「さて、皆んなはどうしているんだ?」とかですね。そうして、他の人をじっと観察する様になったのです。「ああ、あの人はこんな考えを持ってる、それは素晴らしいな。僕は好きだ。」とかですね。貴方が言われる通り、私は、様々な演奏技術を分析していったのです。そうして、少しづつ取り入れる様になったのです。」 
バーンハート「つまり、貴方はまずドラムを発見し、それから、地元のドラマーたちを観察する様になり、そのセットの仕方、演奏の仕方を見て取る様になった、それから、何故そうしているのだろうと思索されたのですね。それでは、貴方が関心を持った、それに、影響された有名なドラマーはあったのですか?」
チェンバース「そうですね。前にも話した様に、それはヘビーメタルのものですね。レッド・ゼッペリン的だったり、ディープ・パープル的であったり、それ風のバンドたち、シン・リジーだったり、リストは終わりがないですよ。本当に。イエス、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、そう言うバンドたち。キング・クリムゾン。バンドが爆発的に増殖していたのです。それらのバンドのどれもが、それぞれの仕方、それぞれのレベルで、最善のものに思えたのです。歌も音像も驚くほどに多様性があったのです。私は、「何てこと!」と思いました。つまり、ちょっと怯んでしまったのです。すっかり気持ちが挫けました。有名なドラマーは、どの人も、とんでもなく素晴らしいのですから。「一体全体、どうすれば、僕はこれをこなせるんだ?」と思いましたね。その時点では、私はやっとテンポを保って叩くことを出来る様になろうとしていたばかりでしたから。一方で、プロのドラマーたちは、あらゆる格好良いフリルやフィルをやっていたのですから。フィルやフリルをですよ、私が言いたいのことがお分かりでしょうか?[ ドラムとフィルと服のフリルの洒落? ] ( 笑う )。 信じ難いことでした。「神様、僕はこれが出来る様にはなりそうもないです。これができる前におじいさんになりそうです。」と思いました。そうですね、今、私は白髪の老人になりました、それで未だに、出来ないのです!( 笑う )。その頃です、私はバンドを見に行く様になっていたのです。その頃、私たちは修学旅行でブリストルに行きました。そこで、1970年か71年ですけれど、ディープ・パープルを見たのです。ちょうど、「 Strange Kind of Woman [ Strange Kind of Woman - Wikipedia ]」をリリースしたばかりでした。それを演奏していたのです。その演奏は私を驚嘆させました。それは、私が観る初めての大きなコンサートでした。大音量で、とても興奮させられたのです。観客がステージの後ろでカーテンにぶら下がっていました。誰もが辺りのそこら中で跳ね続けているのです。誰一人座っている者はいません。飛び跳ねて、仰け反っているのです。目を疑う様な光景でした。その二週間以内に、ブラック・サバスがそこで公演をしたのだったと覚えています。他のバンドだったかもしれませんが。その時、兄さんが自動車で私を送ってくれたのです。兄さんは「あそこに行くつもりか?」と言ったのです。私は、「もちろん、出発!」と答えました。( 笑う ) ねえ、行ったのです、そう言うことです。」 
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2018年11月23日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の4

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の3: ノエルかえる不恵留





バーンハート「( 笑いながら ) 貴方は、音楽をかけてそれに沿って演奏練習していたのですか、それとも、自分ひとりだけで練習していたのですか?」
チェンバース「姉は、旧式のモノラルのセットを持っていました、それに、クリフのレコードもです。それで、姉が居ない隙に、私はいつもそれを拝借していたのです。家族全員が働いている間に、私はドラムの練習をしていたのですからね。学校が終わってからしていたのです。レコードをかけて、それで、どうなっているか分かる様になろうとしていたのです。自問自答していました。「このドラマーはあそこで何をしているんだ? ここを叩くとあの音かな? 違う、あの音じゃないよ。」 私は、バスドラムとスネアドラムとトムとそのほかの付随している装備の違いを聴き分けようとしていたのです。それで遂にです、カッ、カッ、カッ、と言う音が分かったのです。スネアでその音が出せるのです。まあ、結局は、イロハのイから順を追って学んでいる様なものですよ、本当ですよ!( 笑う ) 兎にも角にもですね、私は漸く端緒に着けたのです。「ここではドラマーはこの音を叩いている、あそこではこの音だ、それから、ドシン、ドシン、ドシン、と低くどこかで鳴らし続けている」と考えたのです。こうして、私は自分の耳を訓練しなくてはならなかったのです。レコードから聞き分けて、コピーする為にです。 
 当然ですけれど、私が叩けば、小さなレコードプレイヤーの音は掻き消されるのです。ですから、プレイヤーは、聴くということだけのものになるのです。「ちょっと待ってよ、このドラマーはドシン/バシ、ドシン/バシ、ドシンドシン/バシ、と叩いているぞ。」とか、まあそんなところです、そして聴いた後で、それをコピーするのです。いつもそうしていました。少し聴いて、少し演奏するのです。少し聴いて少し叩く。と言うのも、昔のあの当時では、ヘッドホーンとかそうした類の機器のことは、私は噂にも聞いたことがなかったのですからね、可笑しな話ですけれどね。そうしたものは、ずいぶん後になって知ったのです。正直に言いますと、プロになって、スタジオに入るまで、そうした物を見た経験があるとは覚えていません。「ここにあるこの機器は何なんだ? もすごくステレオになってる! お金を貰ったら、きっとこれを買おう!」と思ったのですよ。( 笑う )」 
バーンハート「他のドラマーが演奏するところをそれまでにご覧になったことはあったのですか? つまり、ご存知の様に、一般的にドラマーは右手を左手に交差させて…、」
チェンバース「そこは一つの重要な点ですね、本当に。と言うのはですね、ドラムズキットを家に持ち帰った時なのですけれど、「ううん、いったいどうやって組み立てるんだ?」と思ったのです。店のショーウィンドウに有った時、それがどうだったかを思い出そうとしました。でも、全く見当がつかないのです。考えました。「待てよ。この大きなドラムだけれど、右足でしようか、左足でしようか、どうしよう。」、でもどうも答えが出せないのです。また考えました。「ううん、こっちの方がいいな。」、それが私には自然に思えたのです。人がギターを始める時には、右利き用であれ、左利き用であれ、それぞれありますけれど、ドラムズキットの場合、まあ、汎用ですからね。知っているだけでも、素晴らしい左利きドラマーがいますからね。」 
バーンハート「そうですね。また、定式でないセットをする右利きドラマーもいます、そうすることで、両方の手が動かしやすい様にするのです。」
チェンバース「ええ。右利きドラマーは、左手でハイハットを叩くのですね、それから、他のことも。スクラッチから始めたことを話しましょうか( 笑う )。気が滅入る難業でした。」 
バーンハート「でも、貴方はそれを遣り遂せたのですね。終えて見れば、良いトレーニングだったのではないかと、私は思うのですが。」
チェンバース「ええ、まあ。他に術もなく、「これは上手く反応しないなあ。」と考え込まざるを得なくなります。そうして考えていると、発条があってそれがハイハットを使える様にしていることに気が付くのです。それに、バスドラムのペダルにも、同じ様にバネがあることも分かるのです。発条は調節が出来て、自分の演奏のスピードに合わせて使いやすくすることが出来ることを知るのです。他もそうです。セットを組み立てて、使ってみます、それで、新しい装置を試してみるのです。「思った様な反応がないな。」と思います、それは、その初めてのキットを隅々まで知ろうとする過程の最初の段階に上がったと言うことなのです。 
 それで、今思い出すのですけれど、その時には、私はもっと別なドラムズキットを探し出していたのだと思います。「僕はこのドラムズで楽しくしてる」とは思っていました。でも、その初めてのキットは、ステージに上がるキットではないな、と思っていました。そのドラムズキットではバンドに入るには力不足だと思ったのです。大雑把で使いやすいキットだったのです。」 


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2018年11月20日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の3

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の2: ノエルかえる不恵留





バーンハート「( 笑いながら ) そうですか。それで、お父さんには、貴方にして欲しいと思っていらっしゃった楽器が何かあったのでしょうか?」
チェンバース「いえ。父は音楽のことに関しては…、そうですね、実際なかったですよ。そう、いつも、ハーモニカは吹けると言い張っていました。ですが、父が吹いているところを見た覚えはありません。父はある意味では音楽にとても興味を持っていたのだろうと、今の私は思います。でもそれは、数杯のビールを飲んでの歌う歌という範囲だったのでしょう。( 笑う )」 
バーンハート「ご両親は、家庭内で音楽を演奏するということはまるでなかったのですか?」
チェンバース「いいえ、本当になかったです。音楽的な家庭ではありませんでした。パートリッジの家とは違います。あの家の戸主はドラマーでした。当然、事ある毎に私を叱責していましたよ。アンディの先代は、ジャズ・ドラマーだったのです。とても良い人でした。実際に演奏しているのを見る機会はありませんでした。でも、どちらかと言えば、ブラシを使うドラマーでした。「ミルクを掻き混ぜる」と私たちは形容していました。実はです、私の母方の祖母は、ハープを弾いていました。ウェールズ人だったのです。それで、ハープを弾いていたのです。母はそう言う所で生まれたのです。また、そこはスコットランドの要素も同様にあったのです。ですから、私は、バグパイプを、あるいはスコットランド的な他の何かの楽器を始めるべきだったのでしょうね。( 笑う ) ですがね、ポピュラー音楽では、バグパイプにはそれほど需要がないのです。勿論、ロッド・ステュワートかアレックス・ハーヴェイと一緒に演奏が出来ると言う幸運に私が与るとすれば別ですけれどね。そうすれば、ステージに上がれるでしょうけれど。でも、そんなことはとても稀なのです。」 
ロッド・スチュワート - Wikipedia
Alex Harvey (musician) - Wikipedia
バーンハート「( 笑いながら ) そうですか、それでは、どのようにしてドラムズに変わっていったのですか?」
チェンバース「ある日、街へと歩いていたのですが、その頃、土曜日には街で早朝上映があったのです。みんなそれを観に行っていました。楽器店の前を通らないと映画館には行けなかったのです。その時、ウィンドウに置いてある燦然と輝くドラム・キットを私は目にしたのです。古いブロードウェイでした。[ John Grey Broadway drum だと。例えば、YouTubeに:https://www.youtube.com/watch?v=54aISj2Y_YM ] そのドラムが何故そこにあったのかは、神のみぞ知るです。とても美しく見えました。青くて、クロム鍍金されていてピカピカ光っていました。それが幾らかだったかは、今は思い出せません。けれども、ピアノよりは相当に安かったです。( 笑う ) 当時、週に三日、夜に食料雑貨店の棚に商品を並べると言う仕事を兄から引き継いでいたのです。それで、私が普段使えるよりも多くの金を得ていました。紛れもない、へそくりを作っていたのです。ちゃんと覚えてないですけど、40か50ポンド貯めたのです。ドラムキットを入手するには十分でした。[当時は固定相場で、1ドル360円、1ポンドが2ドル80セント。なので、1ポンド1008円。] それで、「ちぇっ、糞ったれ、俺は父さんが要らなくなったよ、自分で金を持ってるもん。自分でドラム・キットを家に持って帰るつもりだ。家に置くんだ。」と思ったのです。( 笑う ) 基本的には、こうやって事を運んだのです。ですが、母とお隣さんに一騒動こさせずにはいられない様にしてしまいました。お隣りは、退職した教師でした。それで、私が演奏と言うかそう言うことを始めると、或いは、試行と言うか勉強と言うかですね。元先生は、私たちのうちの玄関に面した庭に出てきて、ビスケットのブリキ缶を何か棒状の物で叩きながら、ご自宅の庭をあっちからこっちへこっちからあっちへと行進を始めたのです。「ちゃんと叩けないなら、これに合わせない。」と態度で示していたのです。ええと、私が言っていることがお分かりになるでしょうか? 私は、「何なんだ、聞きやしないぞ」と思ってました。それに、お隣さんが何をしているかも気が付かなかったのです。で、到頭、母さんがこう言ったのです。「お聞きないさい。どうなるか知りませんよ。あなたはこんな反応を引き起こしてしまっているのですよ。お隣りさんがあなたに加わってしまっているじゃありませんか。」 ( 笑う ) とんでもないことでした。」 
バーンハート「( 笑いながら ) そうですか、それはつまり、あなたは、観客に参加を促したと言うことですね。それは、いい兆候です。」
チェンバース「( 笑う ) そうですね。でも、反対するからそうされていたのですからね。「この子はこんな騒音を出してはいけない。私が、ビスケットのブリキ缶でこの子を屈服してしまおう。」と言うのですよ。今でも、先生が音感があったとは思いません、でも、私のしたことで、先生は音楽的な楽音を何とか出すことができる様になってしまったのです。母さんは先生と私のドラムのことで話し合ったのだと思います。それで、先生は、この悶着には自分に勝ち目はないだろうと悟ったのです。と言うのはです、私が最善でさえも非音楽的な音を出してドラムを叩きまくるのは、昼間に、自宅の居間に限られたことだったからです。つまり、先生は、庭に出て一人相撲を取っていると言うことになっていたのです。それに、先生はドラムについて私の様には興味を持っていなかったことは明らかです。ですから、騒音問題と、音楽的問題との双方で、私は先生に勝ったと言うことになるのかもしれませんね。」 

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2018年11月16日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の2

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の1: ノエルかえる不恵留

バーンハート「それらは、もっとメインストリームのものですね。」
チェンバース「ええ。キンクスには、危険な切れ味がありました。私はこう思ったのです。「ここに、別の道がある。」 それらの曲は、当時の流行曲とは違っていました、私はそう思っています、それでです、私がラジオで本当に何かに興味を惹かれたと言うのはそれが初めてだったと言っていいでしょう。「ゲゲゲ、切れ味がある、何だか恐ろし気な所がある、際どいものがある。」と思ったのです。私が音楽に興味を持ったのはその時だったと思います、本当です。 
 その次の潮目は、’69年ごろです。私の人生の転機だったのです。スポーツに対する面白みが薄らいで来ていました。音楽と女性に興味が湧いていたのです。女性とサッカーよりは、女性と音楽の方が合っているものです( 笑う )。’69年には、驚くほどの数のバンドがいました。そのどのバンドも、レコード会社との契約を得ることが出来ているように見えました。有り余るほどの音楽があったのです。その時期、音楽はそれまでと違った角度で捉えられるようになっていました。重々しくなっていました。様々なメッセージが歌詞の中で読み替えられて行ったのです。それにです。ヘンドリックス的なことが全体で起こっていたのです。まるで、冗談話のようでした。誰かがギターを弾くのではなくて、叩き回しているのです。( 笑う ) そして、実験するのです。ギターとは、六本の弦があって和音と関係しているものではないのです。それは、N次数の世界を拓くのに活用されるものなのです。」 
バーンハート「ええ、あの頃のことをよく覚えています。貴方は、私の兄と同じくらいの年齢なのですけれど、私より五つ上の兄です。大きくなったら、どうにか兄さんのようになりたかったのです。それで、兄さんがそれらのアルバムを家に持って帰ったことを覚えていますよ。それで、それらのアルバムを聴いていて、兄も、貴方が言われたような事柄で仰天していました。ギターを手に取って、何か特別なことをするのですね、色々なことをしていたのです。」
チェンバース「ええ。私の兄は、二つ上でした。それで、兄から受けた影響もあります。ああ、十歳を過ぎたばかりの年頃だと、二歳年上というのは、二十歳年上と言うのと同じでしょうね。お分かりになりますよね。貴方は、五つ年上のお兄さんがいらっしゃるのだから、明白にお分かりになるでしょう。 
 兄さんはそうした音楽を発見して行ったのです。一方、姉さんは、十二歳も年上でしたけど、クリフやトミー・スティールのようなタイプの音楽が好きだったのです。それにビートルズも、私にはちょっと分からないけれど、姉の世代のものだと私は見做しています。けれども、何年かを経て、ビートルズの面々が成したことがなければ、おそらくは、私が聴いていたキンクスやゼッペリンズの様な音楽は生まれなかったであろうと言うことを、十全に理解したのです。ですが、その時点では、ジグソーのそのピースを合わせることは出来なかったのです。 
 私は、数あるものの中で、ピアノを弾きたいと思いました、ピアノを習いたかったのです。父はこう言いました。「ふうん、うちでは買えない、だから、おまえはピアノを習う様にはならない。」 こう言うのは、小さな電気式ピアノではなくて、勿論、一個の独立した家具の様なアコースティックのピアノのことを父は考えていたのです。父からすれば、ピアノは、大きな家具に他ならないのです。( 厳格な父の声を真似て ) 「どの部屋にも合わない。うちに入れられない。大きすぎるだろう、おまえはピアノをやり続けるなんてないだろう、そもそもうちにピアノが置かれることはない。」 まあ、こんなところでした。それに、父は、ピアノを弾くなど女々しいことだと見做していたのだと、今の私は思っています。その上、父は、おおざ…、ええ、酒豪でした。二年ほど前に父は亡くなっています。神よ、父の魂を安らかにし給え。父は、ビールが好きでした。その点では、私は父の跡を付いて行っているのですが。( 笑う ) 父が二日酔いで起きた時には、いつも、生卵を器に落として、少しばかりのウスターシャソースを垂らし、それを一飲みにしていました。それが父の二日酔いの治療法でした。( 笑う ) 前の晩には酔って自動車を運転して帰ってきたのは明白だったのです。どうしようもないタクシー運転手でしたよ。( 大笑いする )」 
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2018年11月13日

バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の1

 トッド・バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー。2002年5月15日に行われたのだろうか? チョークヒルのアーカイブには、7月5日の日付に。 
 タイトルは、「 Senses Working Over Time (or, How Terry Chambers learned to stop worrying about XTC and love the drums again) 」。 
 18,000語あまりの量なので、XTC 以前のことについての、最初の5,000語弱の部分を何回かに分けて。その後のパートは、いずれ。 

Chalkhills: "Senses Working Over Time", July 5, 2002



バーンハート「さて、始まりから開始しましょう。貴方はスウィンドンで育ったのですが、それについて…」
チェンバース「何とまあ、そんな昔に話を戻したいと? ( 笑い )」 
バーンハート「ええ、もちろんですよ、私は貴方たちのバイオグラフィーを読んだことがあるのですが…」
チェンバース「そうね、バンドが出来るまでの通史、バンド以前史は、全くの無誤謬ですよ。言いたいことがわかりますか? 誕生の日付、通った学校、両親の名前、居住していた場所、そういう類のことは、どれも、正鵠を射ています。そう行った事柄について私が異議を唱えて来たとは思いませんね。」 
バーンハート「育ち盛りには、フットボールに夢中だったのですよね?」
チェンバース「サッカーです。スウィンドン・タウン・フットボール・クラブのトライアウトは、実際に受けました。チームは今では、プロのチームになっています。セカンドディビジョンに入っていますよ。[ 2004年の改定で、プレミアリーグ/フットボールリーグに名称が変更。フットボールリーグ - Wikipedia ][ スウィンドン・タウンFC - Wikipedia ] 結果はどうだったか、今は覚えていません。半々というところではなかったのでしょうか。もし、チームに入っていたら、別の未来があったのでしょう。ところがです、ちょうどその頃というのは、私が14歳になった頃なのでした。お分かりでしょうけれど、その年頃は、「人生の大航海時代」なのです。一人の人格として、自分を把握しつつある年頃なのです。サッカーは、私が7歳の時からしていたスポーツでした。14歳になった時には、人生に於いて、別の物事が起こり始めるのです。女の子をいそれまでとは違った見方で見るようになってしまいます。それまでしていたように、しかめっ面をして嫌がらせたりしないのです。他の旧友の男のたちのように押し倒したりはし難くなりますよね。そういうことです( 笑う )。私がラジオを聴き始めたのは、その頃だと思うのです。1968年69年頃ですよ、そう思います。その頃、音楽シーンには、たくさんのヘビー・メタルの曲が登場してきたのです。ザ・ゼッペリンズ、ザ・ディープ・パープルズ、ザ・ブラック・サバスズ、その他です。[ バンド名は、チェンバースの言い方をそのまま。 ] 私の音楽に関する思い出の最初のものは、休みの日のデヴォンかどこかに出かけた時の事だと覚えています。イングランドがワールドカップで勝った頃です。[ 1966年にイギリスでW杯が開催されて、イングランドが優勝している。デヴォンは、コーンウォール半島にあるので、スウィンドンからはとても遠いのだけれど? ] と言うのはですね、父と私は、当時、貸しラジオ屋の店頭で、ラジオを通じて試合を観戦していたのです。[ 戦前から、イギリスの南部には、ラジオをレンタルする会社があったらしい:Radio Rentals - Wikipedia ] 貴方に分かりますかね。あの頃はですね、ベッド・アンド・ブレックファーストに泊まれば、テレヴィジョン・ルームと言う部屋があって、たった一つだけテレビ受像機が置いてあったのです。そこでなら、試合中の様子を見られたわけです。各部屋にテレビがあると言うのではなかったのです。それですから、1966年のワールドカップを私たちが観ようとすれば、高級住宅街に行って、お店のショーウィンドゥでレンタル・テレビを見つけ出さなければならなかったのです。そこで試合が見られたのです。( 笑う ) そこには、大勢の人がいましたよ。お祭り騒ぎでした。本当に、奇妙な様子でした。当時のヒット・ソングで、私に影響を与えたのは、キンクスの「 You Really Got Me 」でした。琴線に触れたのです。突然でした、クリフ・リチャードやトミー・スティール以外の曲があることを知ったのです。私は…、」 
クリフ・リチャード - Wikipedia
トミー・スティール - Wikipedia



バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の2: ノエルかえる不恵留
バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の3: ノエルかえる不恵留
バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の4: ノエルかえる不恵留
バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の5: ノエルかえる不恵留
バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の6: ノエルかえる不恵留
バーンハートさんのテリー・チェンバースへのインタビュー パート1 の7: ノエルかえる不恵留
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2018年10月09日

Peter Uzzell さんの葬儀

 スウィンドンの北部に新しい火葬場が出来たのだそう。そして、その施設を最初に使用することになったのが、Peter Uzzell さんの家族。Peter Uzzell さんは、XTC のシングル「 Ball and Chain 」のジャケットのアートワークに使われた写真に写されたテラス・ハウスの所有者だった人。それで、葬儀では、「 Ball and Chain 」を流したそう。 ( 葬儀は10月7日? )

Chalkhills: Reel by Real: XTC: "Ball and Chain"


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2018年07月13日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 11

「 Snowman 」 
アンディ: 
 ポートベロ通りの外れのヴァーノン囲繞地[ Vernon Yard : パートリッジの書き方だと地名の様だけれど、Vernon Yard Recordings はヴァージン傘下のレコード・レーベル。 ]にあるヴァージン・レコード社へ行かなければならないことがあると、決まって、用件を迅速に済ませて、立ち寄るべき寄港地が二つあったのだ。一つは、アル・クラークのビールが入った冷蔵庫である。そして、二つ目は、その隣りに隠し場のあった、彼のECMのアルバムのコレクションである。彼は常々「一枚しか残ってないアルバムは持って行くな、そうでないのは自由にしていい。」と申し立てていたのだ。ヴァージン社は、ECMのレコードを英国内で販売していたと言うことを、諸君も承知して置くと良い。何故、アルがECMのアルバムを全部二部ずつ持っていたかと言う理由が解せるだろう。…、しかし、それも、蝗の群れ XTC が遣って来るまでの話しであった。

 或る日、エバーハルト・ウェーバーの『 Fluid Rustle 』[ Fluid Rustle - Wikipedia ]と言うアルバムを勝手に持ち出しのであった。そして、その時から、それを掛けて聴くのを止められなくなったのであった。その中の一曲に於いて、ビル・フリューゼルがバラライカでリズムを弾いている。それが曲の核と成っているのだ。私は魅了された。ツアーのヴァンの中でそれを繰り返して聴く度に、私に起こる反応作用は度合いを増していったのだった。そして、私は、似た様なジャンジャンと鳴る感じのものを使って歌を書こうと決心したのだ。私は、バラライカを持ってはいなかった。その音を、自分のエレクトリック・ギターで作ってしまおうと思ったのだ。また、この歌は、レコーディングされる前に、ステージの経験により、威風堂々としたものに仕立て上げられたのだった。テリーのレゲエ・スタイルのドラミングは、コ・ムのベースのお喋りメロディと良く噛み合っておる、デイブと私は、その上を滑走しているのだ。落ち着きの無い大股の闊歩が出来ている、それを私は何としても捉まえたかったのだった。 

 マナー・スタジオでは、逆向きのリヴァーブの塗布は、この曲に北極圏の雰囲気を出すのへの一助と成った。歌詞の主題は、九年後に「 Always Winter Never Christmas 」を書くまで、私の中に感染し潜伏したのだ。同じ主題だ。同じ種の人間が、中間部に於いて、私の生涯での最高のカプレット( 対句 ) を口にするのだ。「 People will always be tempted to wipe their feet... on anything with welcome written on it. 」 私は認めざるを得ない。これを凌ぐものを創ろうと、私は苦悩して来ているのだ。諸君は、終部での見せ掛けのフェイドアウト、少しだけ戻って来ると言うあれだ、に関して、あれは、スモール・フェイセス Smal Faces の「 I Feel Much Better [ Tin Soldier (song) - Wikipedia ] 」か「 Afterglow [ Afterglow of Your Love - Wikipedia ] 」に発想を得たのだと私を非難するだろう。時には、そこから借りると言うことができないのならば、良い芸術の利用価値とは何ぞや? 

デイブ: 
 この歌は、1981年のツアーを通じて、ステージでよく練られたものでした。私は、短いアルペジオのハーモニーを考え出しました。それには、リッケンバッカーの第九番目のフレットの後ろにカポを装着しないといけませんでした。そのアルペジオは、アンディのギターの上に、よく合った冷たい氷の感じを出しています。アンディは、私のギブソン ES-335を直接にコントロール・デスクに繋いで演奏して、それをレコーディングしたのです。その遣り方で、障碍も感じずに無理無く作業が進んだのだったと覚えています。と言うのも、私たちは、その遣り方に慣れていたからです。後になって、ヴォーカルが加えられた後にですが、アンディは、開始部分に情景を想起させる様な短い音形が必ず欲しいと言い出したのです。それで、私は、ピアノを持ち出して、「雪が降る」短いモチーフを考え出しました。それに、アンディがプロフィット5を使ってチリンチリンと言う様な音を作って重ねたのです。アルバムの曲順が決まると、このアルバム最後の曲と「 English Roundabout 」の最後の間にクロス・フェイドを充てることが決まったのです。 




English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 、全部終わり。 
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2018年07月10日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 10

「 Down in the Cockpit 」 
アンディ: 
 この「ぼぼぼぼぼぼ」と言うバッキング・ヴォーカルのフレーズは、聴く度に、イタリア語かと思わせるのだ。或いは、レイ・コニフ Ray Conniff [ Ray Conniff - Wikipedia] 演奏の「 The Street Where You Live 」[ パートリッジの原文のまま:「 On the Street Where You Live 」のこと。ミュージカル『 My Fair Lady 』の中の歌。レイ・コニフのものは1958年の『 The Ray Connif Hi-Companion 』の中に。 ]での好色水夫がリヴァーブの掛かったバッキング・ヴォーカルで歌う「バ・ドゥー・ドップス」を思わせる。それは、子供の時の散髪と繋がっている様に私には思えるのだ。コニフの演奏のものは、散髪屋の店内で、常に常に、ラジオから流れていたのだった。それに、或いは、散髪屋はおそらくイタリア人だったのだ。深い記憶の底の出来事が、歌に入っていると言うのは、可笑しなものだ。 

 兎にも角にも、この歌は、アルバム中の最も貧弱な曲である様に私には思える。私たちが、「 Tissue Tigers 」を取り上げなかった理由は何なのだろうか? 或いは、「 Blame Weather 」「 Heaven is Paved with Broken Glass 」が、今はむしろ良い様に思うのだ。ではあるのだが、全体的には、この曲に於いて、私たちは極めて良い演奏をしている。諸君は、右チャンネルで私が半狂乱になってスカ的ギターを弾いているのが聴かれるだろうし、左チャンネルではデイブがフェンダーを使って様々なフレーズでチャンネルを見たしているのを聴くだろう。リズム隊は、グルーブを出すのに良い仕事をしている。テリーは、特筆すべき正確さで、軽打( flicks ) の中にロトトムを入れるのだ。和音でのソロはワタクシである、一方、フェイドアウトの部分では、デイブが女性の身体の線をきれいに表すメロディを発している。 

 ベラベラと喋っている部分、あれをフランス語で話す様にとバンドが私に忠告しなかったことには、一千乗の感謝をする。あれには身も縮こまる思いをする。私は何を考えていたのだ? 英語でも十分に悪いのだ。でもあれを小学生のフランス語で聴けば…、そう、…、自慢げに…、moi?  「あれを追い出せ」


デイブ: 
 当時は、ツー・トーンとスカがとても流行っていました。それで、この曲にも、それが伝染しているのだと私は思います。リズムは、セレクター The Selecter の「 On My Radio 」を思わせます。けれども、私たちはもう少し速くしていますけれど。アンディが最後のヴァースをフランス語で歌うと言った時にはぞっとしました。何とか、そうしない様に説得することができましたけれど、身の凍る思いの一瞬でした。バッキング・ヴォーカルはコリンとテリーです。正直に言いますと、私の好きな曲ではありません。 
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2018年07月06日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 9

「 Knucle Down 」 
アンディ: 
 さて、私たちはツアー中で、オーストラリアの上空に居るところだ、と思いなさい。カンガルー・コブラズ [ 原文: Kangaroo Kobblers。実在の航空会社ではなく、Kobblers の方は、cobra の綴りを変えたものか? ] 航空、或いは、他の最も安い航空会社の飛行機が不安で、間接が白くなる程握りしめた掌には、汗が滲む日だったのだ。私は、テリーの隣りに座っている。そして、私の耳には、彼がウォークマン ( 諸君は記憶しているだろうか? ) に差し込んでいるヘッドホンから漏れて来るカチカチ言う音が聴こえている。テリーは、ツアーのサポート・バンドの一つ、Matt Black [ Matt Black は、パートリッジの原文のまま。おそらくは、Matt Finish だと思われる。Matt Finish - Wikipedia  件の曲がどれなのか分からないけれど、ドラマーであった John Prior さんがYouTubeにチャンネルを設けている。例えば、「 Fade Away 」: https://www.youtube.com/watch?v=QLE7Y2yJ7Vs https://www.discogs.com/Matt-Finish-Fade-Away/release/2922526 ]から彼に手渡されたカセットをさっと聴いているのだ。「前へ、パーチィ、この曲のドラムを聴いてみ、どう思?」 私は、ボタンを押す。そして、警戒にスキップするハイハットを聴くのだ。それは、これまで私が聴いたことがないパターンだった、口にして見るならば、「ジペッティ、ジップ、ジャ、ジップタ、ジップタ」と言う様な。私たち二人共が、これはとても素晴らしいと意見を同じにした。そして、覚えておくことにしたのだ。さて、諸君、時間を早送りし給え。霜の降る十一月である。オックスフォード郊外のスタジオである。このハイ・ハットのパターンは、私の歌に、美々しく設えられたのだ。箝口! 他言無用である。 

 この歌には、風変わりな短いフェイド・インがあるのだ。それも、リバーブがふんだんに掛けられている。常に常に、常識的な手順を撥ね退ける新しい方法を探していたのであるが、これは試して見る価値がある様に思えたのだ。それに、上首尾に仕上がりそうに思えたのだ。製作全般に当たって、記憶に留めるに特筆すべきことがある。この曲で、私は、ヒュー・パジャムと論争に極めて近い状態になったのであった。( 相当に控えめではあったのだが。 ) ミックスに使うある効果について意見が違ったのである。私は、如何にかして、あのビートルズのミックスでの莫大な量の圧縮に私が大変に傾倒していると言うことを説明して理解して貰おうとしたのだ。そして、他でも無いこの曲に、それを使わない理由があるだろうか、と彼を説得しようとしたのだ。ヒューは、この美しく立体感のある音像をレコーディングした後に、今や、世界クラスの技術者と成っているのであるが、この時には、大きな古のコンプレッサーを使い、音を圧し潰し絞り上げることには、不機嫌な子供の様であったのだ。私たちは、暫くの間、行きつ戻りつして、ある妥協に辿り着いたのだ。それは、ヒューは曲を圧縮はする、ではあるが、私が望む程には大量の音をではない、と言うものだった。こうして、二人の英国紳士は友好的な解決を得たのだった。そおおうして、四肢を伸ばし、タンノックを手渡して…。
Tunnock's - Wikipedia 

 私は、この歌をスウィンドンの私たち夫婦のアパートの外のトイレ兼石炭庫で書いたのである。古い便器は既に取り除かれていたのだ、そこに、私は白い乳液を一塗りし、輝く場所に変えたのだった。スタジオに戻る前に、生産的な数週間をそこで過ごしたのであった。今日、ヘッドホンでこれを聴くと、この曲を躍動させる打点のあらゆる位置を思い出させられるのである。一行が歌われた後、毎回、スネアが打たれつっかえる様なエコーが掛かる、そして、エヘン、ギロが2分22秒の所で始まるのである。[ ギロ - Wikipedia ] 言うまでもないことではあるが、実際には、私たちはギロを有してはいない。それ故、スタジオに入り、声真似をすることにしたのである。[ プロフィット出を使用してではなく、自分の声で真似たと言うことだろう。 ] 問題はである、それはむしろヒキガエルの様に聴こえると言うことなのである。何たるかな。 

 この歌は如何ともし難く長いのであった、それ故、私たちは、この拷問を減じる方策を講じたのである。聴衆の諸氏は、これは編集ではないかと私が思っている部分を3分19秒の時点で聴くことが出来よう。恐らくは、あそこで、歌はギター・ソロに入ったのであったと私は覚えている。ところが、私たちはそれを切り取り、どんどん先へ進めたのであった。曲全体が次第次第に嵩じて行く、…、そうして、ズドン! 他の場所へと急に向きを変えるのである。デイブの僅かばかりの慰めと言えば、曲のフェイドアウトの部分に、ジミ・ヘンドリックス調のフィードバックとフレーズが収録されたと言うことである。「いや、悪かった。」 

 このアルバムが合衆国で発売された際には、目を見張る程に大部の「ヘイト」メールをアリゾナ州フェニックスに住む大間抜けから受け取ったのであった。彼の言には、種々あったがその中で、この歌を書いた私は白人への裏切り者だ、と言うものがあった。彼は、「私がクロンボ猿の友人を送り込んで、自分と自分の家族全員を惨殺する恐れがあるので」と書いて、自分の住所を記すつもりはないと述べて、その魅力的な手紙を切り上げていた。「自由」の国、「勇者」の故郷ではないのか? 

デイブ: 
 私たちがこの曲を持ち込んだ時には、曲はまだ「スタジオ用」に出来上がった状態ではなかった様に、私は覚えています。イントロが定まってはなかったのです。結局は、中間部からD調のギター・ソロを取り出して、それを開始部分に移すことにしたのです。それから、C11を通してFメジャーに転調して、オープニングのコーラス部分にしたのです。四小節の転調がこの歌への導入なのです! 私は、この楽想がとても気に入っています。チェンバースの素敵なステッピング・ドラム、素晴らしくかっこ好いですね。アンディは、私に2コードのフックを取らせました。そのフックを、私は、小さなフェンダーのスーパー・アンプに繋げた私のストラトをライブ・ルームの中で演奏したのです。フェイドアウト部分のフィードバックは、「 No Thugs 」の大音量のギターを録り終えた後に、加えられたのでした。でも、その時に、私は何も前もって考えてなかったのです。「ただ、何か突飛なことを弾いてくれ」と言われたことを覚えています。
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2018年06月29日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 8

「 It's Nearly Africa 」 
アンディ: 
 この和声、これは原始主義への讃歌と成っているのであるが、それは、私が可成り遡る以前の1977年に書いた「 Jazz Love 」と言う題の歌から来ているのである。前世のバリー・バンドでもサウンド・チェックの折りに数回この曲について話し合ったことはあるのだが。その他に、この曲についての忘れ難いことはただ一つであるのだが、それはである、この却下された曲は、歌の中に入っていた句「 drum and wire 」を、直ぐ様の1979年に、提供してくれたと言うことである。 

 さて、我等が”ミルト"・グレゴリー[ アメリカのジャズ・ミュージシャン、Milt Jackson ミルト・ジャクソンのことだろう。ニューヨークのMJQ のヴィブラフォン奏者。Milt Jackson - Wikipedia ]が音楽の骨格を創り出しているのだ。プロフィット5を使って、木鼓に非常に似た音を創り出している。一方、コリンとテリーは、グルーブに徹している。これは、あの頃よく在ったことである、TC は私たちに子作りに励む様鄭重に誘うのである、その間、彼は離れた所でドラムを叩き続けるのだ。その話しは、デイブが諸君に語るであろう。私はと言えば、「骨皮筋」的ギターを弾いている。エレクトリック・ギターの弦から1インチも充たないほんの僅かの距離しか離さずにマイクを設置し、録音している間そこから敢えて動こうとはしなかったのだ。一番高い音より更に高い音の為だ。私の記憶が正しいのであれば、この技術を使ったのは、「 Pulsing Pulsing 」が初めであろう。これもまた、ヒュー・パジャムの業なのである。 

 この曲も、「 Melt The Guns 」の中間部のヴォーカルから一百万マイル離れているのではないのである。斯の部分と同様に、アンプとケーブルを通して圧搾され、面白い滓と成っているのである。少々風変わりにしているものは、過度のトレモロを含んでいることと逆方向のリヴァースを掛けていることである。これは、各言葉が歌われる前に、耳に「到着」してしまう不気味な音なのである。至って単純なのである。テープを反対向きに機械に掛けて、そこにリヴァーブを施して録音するのである。そのテープを正しい方向に再生すると、リヴァーブは、本来の音の前に起こってしまうと言うことが起こるのである。科学とは驚嘆させられるものではある。 

 それからである。小さく手に持てる大きさの石油精製機に似たものを使おうと試みたのものこの曲である。再び、私は、アルト・サックスを敢行したのであるが、…。この時の私が搾り出した鵞鳥のガーガー言う鳴き声は、曲の赤道直下の活気に適っている様に思えたのだ。確かに、只今の言は、私が私自身に言ったことではある。一つ覚えていることがある。アルバム『 Mummer 』を製作中の或る時にである、まだ私は鵞鳥の鳴き声に固執していたのだが、誰だかが、湖でその音を発すれば、鳥たちが私が搾り出す言葉を理解したならば、同じ音を返して来るだろう、と度を超した助言を呉れたのだった。正に馬鹿者、私は試してみたのだった。恥ずべきことに、非常に非常に非常に巨大な白鳥に追い回されただけであった。明らかなのは、この大鵠は、ジャズ愛聴者ではないことである。 

デイブ: 
 この曲では、スタジオでちょっとした騒動があったのです。バッキング・トラックを作ろうとしていた時のことですけれど。何かがテリーの気を散らせたのです、テリーはヘッドホンを通じて、何が問題になりそうなのか、修整するにはどうするのが最善なのかと言う、多岐にわたる指示を聞いて把握しようと努めていたのですが。遂には、憤慨して、コントロール・ルームに乱入して、トロッグスのロニー[ 1964年から活動してるイギリスのバンド、パンク・スタイルに影響を与えた。The Troggs - Wikipedia ]のスタイルで、彼が自身で満足出来る様に完成するまで、即座に敷地内から退去する様に命じたのでした。それは、二小節の装飾のないオスティナートのリズムだったのですけれど、何の切っ掛けも変化もないと言うものだったのです。私たちは、言われた通りにしたのです。五分後、バッキング・トラックは完成しました、完璧だったのです。アンディは、またもや、私のアコースティック ES-335 を使い、弦にコンデンサー・マイクを近付けて、それを直接にコントロール・デスクに繋いだのです。コリンは、彼の「フレットはあるのに無い様に見せ掛けの[ 原文: "fretted bastard" ]」フェンダー・ベースを使っています。私は、マリンバ、と言うか、アフリカの木鼓の様なパートを書きました。それを自分が担当したのです。私たちは、バンドのメンバーだけで、プロフィット5・シンセサイザーを使って、間に合わせの音を作り上げたのです。それを私は、コントロール・ルームで弾きました。また、サックスのソロがあります。アンディが、世界最悪の交通渋滞のラゴスで聞かれるクラクションの様な音を吹いているのです。 
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2018年06月23日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 7

「 Leisure 」 
アンディ: 
 私たちは、ツアーに於いてのサウンド・チェックなるものを如何にか楽しいものに変える必要に迫られていたのだ。斯く言うのも、それは仕事の必須部分ではあるのだが、最善であっても退屈で、最悪であれば気持を挫かせるものであったからだ。更に時には、苦痛に満ちた思いをさせられる時もあったのだ。フィーッドバックの爆音で脳に穴を開けられる様な目にも遭い、詰らない癇癪の一つや二つを呼び起こしてしまっていたからだ。何年間もに亘って、私たちは、小さなジュークボックスを満たす程のリフを育んでいたのだ。それ故、私たちは、音響係の者たちが機器を備え付け繋いだり摘みを調整したりしている間、彼らを楽しませることができたのであった。その内に、私たちは、シェイカ・B・デヴォション Sheika B. Devotion [ フランスのディスコのグループ Sheila and B. Devotion - Wikipedia ]の「 Spacer [ 1979年のシングル Sheila & B. Devotion - Spacer at Discogs ] 」や、イギー・ポップ Iggey Pop の「 Sister Midnight [ 1977年のシングル Iggy Pop - Sister Midnight at Discogs ] 」やその他の多くの曲に飽きて来たのだった。必然的に、私たちは、このリフを出してしまったのだ。ポンと飛び出た一塊、これが、ある日、「 Leisure 」に成ったのである。 

 何年もの間、この赤ちゃんを私たちは弄っていたのではあるが、いざ、スタジオに持ち込むと、どう手を付けて良いのか、さっぱり分からないと言う有様であった。曲の開始部分では、つい、開位置にしてしまったのだ。[ 原文 : button out。入口が出口に通じている位置。 ] 諸君が耳を峙てて聴くならば、私のヘッドホンで鳴る音が聴こえるであろう。その音が適当な間で入っている。このアルバムの病弱な従兄弟たちなのであるが( 私たちが自身に正直であればそういうことなのであるが、「 Cockpit 」と共にアルバム中の弱い曲であるのだ )、全体的には、私たちが駄目な仕事をしているわけではないのだ。アレンジに於いては、タンタロスの穴があるわけだが、その様に演奏している、開位置にしているのではない。コリンは、階段を駆け下りるエレクトリック・ギターの不細工なリフに、堂々たるウォーキング・ベースを添えて、曲に威厳を与えている。ドラムの残響音にフェイザーを掛けると言う考えは、なければならないと言うものではなかったのだが、興味深いものではあった。そして、セニョール・チェンバースは、ロトトムをあちらこちらで軽く叩き、曲を輝かしいものにしたのだ。 
[ フェイザー (音響機器) - Wikipedia ]

 この歌の最善の部分は、先見の明のあるコンピューター・ゲームに関する歌詞は置いておくとして、中間部の「バーニー」・グレゴリー氏と彼の高級ホテル・ラウンジの純粋カクテル・マティーニ調の指が奏でる、頗る瀟洒なギターのメロディーである。[ Barney の名前を持つジャズ・ギタリストには、Barney Kessel がいるが、その人を指しているのかどうかは分からない。Barney Kessel - Wikipedia ] 美しいメロディである。我等が「 hoarse foreman of the apocalypse [ 嗄れ声の黙示録の職長: ヨハネ黙示録の四騎士 Four Horsemen of the Apocalypse を踏まえたもので、ランディ・ニューマンを指すらしい。 ]」は、アンサー・バックヴォーカルもコリンと共に担当した。この中間部が、私をアルト・サックスのソロへと導くのだ。一体全体、私は何を考えていたのだ? 私が何を考えていたか、諸君に率直に明かそう。私は、サクソホーンの演奏は朝飯前だと思っていたのだ。楽器を取って二週間もすれば、チャーリー・パーカーに成れると思っていたのだ。どちらかと言えば、チャーリー・チェスターであった。[ イギリスのコメディアン。 Charlie Chester - Wikipedia ] この楽器に関する音楽的虚栄心の発作がスティングにもあったのだが、それと殆ど同じものが私にも起こったのであった。[ スティングは、ポリスのアルバム『 Ghost in the Machine 』の中の「 Demolition Man 」でアルト・サックスを吹いている。 ] もう、頼むよゾッド [ DCコミックの General Zod ゾッド将軍 ]、X-Ray Spex [ イギリスのパンクバンド、サクソホーンを使っていた。X-Ray Spex - Wikipedia ]の全部の曲と同じで、このサクソホーンは大きな混合器の中に押し込められると言う印象を与えるし、また、不得手者たちが大抵そうである様に、サクソホーンなるものをからかっていると言う印象を与えるのだ。

 アウトロに、「 Lazybones 」を歌ったのだが、あれは、何を歌うべきか決め兼ねていた最後の一分で思い付いたものであった。「 Looking throug The Sun ( 新聞 ) 」「 Leafing ( 同 ) 」と言う句が同時に頭に浮かんだのであった。常々、「 Sun readers 」と言う撞着語法が、私のお気に入りであったのだ。「 Sun holders 」の方がもっと合っていただろうが。 


デイブ: 
 何方か、この曲は何のキーで始まっているのか私に教えて下さらないでしょうか? この「かっこ好い」ギターが音が悪くて殆ど聴き取れないのです。駆け足歩調のベースラインとギターのリフは、1981年のツアーでのサウンド・チェックに使っていたもので、私たちのお気に入りでした。アンディは、楽想を発展させて、失業の危機についての歌にしたのです。未来の社会と言って、思い浮かべられるのは、その失業の危機だったわけです。何と先見の明のあることでしょう! 「テレビゲーム?」 そうですね、それで時代が分かりますね。ドラム・キットにフェイザー・エフェクトを掛けるとは、、、んんん、、。しかし、モールディングが弾くベースはとても味があります。私は、ES-355 を使い1940年スタイルでギター・パートを弾いています。ホテル・ラウンジのジャズ・スタイルですね。それに、ちょっとですけれど歌っています。サクソホーンのソロは、バリー・アンドリューズの霊を召還しようとしているのでしょう、私はそう思いますよ。
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2018年06月15日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 6

「 Melt the Guns 」 
アンディ: 
 この歌の私が好きな部分は開始後0分10秒から0分16秒あたりで現れる挿入である。調子が不揃いのチンパンジーの声の様な非楽音である。[ 「ホッ、ホッ、ホ」と言う様な声 ] イントロに於いて、ダブルトラックを使って即興をしようと考えたのである。尻を叩いて( 痛! )、「ホーホー」と言う声を出したのだった。それがミックスされて完成された後、私は、もっとこれをするべきだったと思ったのだ。それがこの曲の目玉になっているのである。 

 この銃を所有するものに対しての長広舌、「 yes you in particular 」は、元々、スティーブ・ディッコ Steve Ditko の漫画に発想を得たのである。その漫画とは、未来の警官が「疫病」で「病気」になっている者を追って行くと言うものであった。警官はその者を袋小路に追い詰める。取り押えて、病気を取り除くのである。その病気とは銃なのである。[ ディッコには、1952年に『 The Polka Dot Man 』と言う作品があるが、それとは違う様に思う。 ] 私は、この期に及んで、木製の林檎箱の演台に登ろうとは思っていない。ただ、思っていることを口にするだけで満足しているのだ。銃は邪である。禁止されるべきであった。若し、ハリウッド映画が銃使いの無頼漢の広告を受けていなかったならば、私たちは真っ当な道への旅程に出発し進んでいたことだろう。兎も角も、私は主題を得たのだ。後は、それに付ける曲が必要だったのだ。 

 前作の『 Black Sea 』に私が持ち込んだ歌が一曲あったのだ。それは、バンドの全員、其の他の者たちから「不可」とされたものだが、「 Holding the Baby 」と言う題であった。[ 2017年のBlu-ray・ボックス『 Black Sea 』に収録されている。 ]誰もこの歌について多くを論じはしなかった、話題にすることもなかった。然らば左様、コベントリーに帰りの切符を持たせずに送ってしまわれたのだろうと諸氏は考えるだろう。[ send one to Coventry は仲間はずれにすると言う慣用句。 ] 兎にも角にも、その歌の最善の部分は毟り取られたのである、そうして、速さを半分にして、「 Melt 」のヴァース部分と成った。それに、新しいコーラス部分が嵌め合わされたのである。付言すればである、ヴァース部分の「 Programmes of violence 」の所、あれは、一つの和音を奏でながら、基音を動かしてそれがメロディに成っていると言う点で、「 Yacht Dance 」と同じなのである。明らかに、当時の私に起こった事柄である。クリック・トラックなる物を使って録音したのは、私たちバンド及びテリーにとって、これが二曲目であったのだ。一曲目は、「 Smokeless Zone 」であった。その曲では、ティンバレスのループがタイム・キーパーと成っていた、また、それが編曲の一部でもあった。「 Melt 」の場合、クリック・トラックは文字通りのクリックであった。テープ・ループは、チェンバーズ氏がドラムの枠を叩く音であった。彼は、それに沿って、半分の速さでカウントするパターンを演奏したのである。 

 この曲の殆どの部分は練習されていたのだが、中間部はそうではなかったのだ。そこを如何すれば良いのか誰の思案も及ばなかったのだ。デイブが転調を提案したのだが、直ぐにもそれは名案だと思われたのだ。中間部は、「 played dub 」のスタイルである。「Scissor Man 」と無関係ではない。前もって決められた合図で歌に戻るまでブラブラ逍遙する自由な領域をバンドが持てると言う曲なのであった。確かに、ここで、私は反チャールトン・ヘストンの説法をしているのである。私たちには、私の大演説をする為に軍艦の拡声器を使用する権限はなかった。それ故、ヒューは、私の声をアンプに通し、しかも、ある文句にはイーブンタイド Eventide 社のハーモナイザーを掛けて、少しの間隔を付けてふくらませフィードバックさせたのである。然に在らん、当時に於いて、私たちは私たち自身のエンターテイメントを作り出す必要があったのだ。 

 コリンは、又もやフレットレスを使っているのだが、この曲に於いては、メロディックではあるけれど緊迫したリフをバックコーラスの如くに弾いて非常に重々しい効果を出しているし、他面、始終囀り続けているのであるが、それは私のアコースティック・ギターとデイブの曲中に偏在する12弦ギターに素晴らしく共鳴しているのである。この曲には長いアウトロがある。( 私たちはこれをどう終わらせれば良いか分からなかったのであるから ) 長いのである。そのアウトロで、私は、ダモ・スズキの霊に憑依されている様に思えるのだ。それ故、私は意味のない音声を出してキーキー言っているのだ。ヒューは極めて正しかった。テープを二フィート程切ってしまおうと提案し、恭しく小刀を取り上げて…、「大丈夫、君たちの最中にはさせないから。」   


デイブ: 
 この曲はテープ・ループを作ったのだったと思います。間違いなくテリーが演奏した「カチッ、パチッ」と言うビートを、鉛筆を回転軸に使って4分の1インチのオープン・リールのテープに複製していって、繋ぎ合わせて長いループにしたのだったと思います。この時のセッションいついて、私は、あまり覚えてはいないのです。日記では、この曲の録音は、「 Senses Working Overtime 」「 English Roundabout 」と同じ日にされています。10月13日火曜日です、この日はとても生産的な日だったのです。アンディは、21日水曜日に再びこの曲に取り掛かりました、丸一日を掛けて、ヴォーカル部分を録音しました。ほんの僅かでしたが、ヨーロッパ・ツアーでは、この曲を本当に楽しく演奏したのでした、それは、1982年3月のツアーです。 
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2018年06月07日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 5

「 All of a Sudden ( It's Too Late ) 」 
アンディ: 
 この歌を何所で思い付いたのか、私にはまるで覚えがないのである。にも拘らず、ヴァージン社の某氏は合衆国に於いてはこの歌をシングルにするのが宜しいと考えたのだった。然々然様の理由で、会社の面々は、私たちの金をこの歌のビデオの為に投下するのを全く厭わなかったのである。彼らの紳士たる側面である。テリーは、そのビデオには出演せず当て振りもしなかった、と言うのは事実である。彼は、オーストラリアへと斯の地の女ドナを伴って飛び立っていたのだった。故に、ある企てが謀議された。彼を呼び戻し、一日の午後だけ彼のドラム・キットの椅子に座らせると言うのは費用が嵩み過ぎるのであるから、デイブのドラム奏者の弟イアンに座って貰うと言うのである、而もそれは影だけなのだ。イアンは承知した、…、むむむむ、デュークス・オブ・ストラトスフ耳は、斯く図らずも誕生したのだった。 

 何方かこの歌は長すぎると思わないだろうか? 私は今でもそう思っているし、当時もそう思ったのだ。とは言え、如何にしても、シングルとして供出するのに適当な規格に短く切り詰めるのに如何すれば良いか考え出せなかったのである。[ 己の為の ]備忘:「「大桶」で売られている如何なる物も食べるべからず」 而して、長いままなのである。ドンドンと鳴るトムトムのイントロは、ストーン・ルームがドラム・サウンドに如何に化粧を施すかと言う良く分かる例である。私たちはそれが大変に気に入った。そうして、ヤング・ラディカルズ Young Radicals [ 原文にはYoung 。New Radicals のこと。 ] と、その立役者グレッグ・アレクサンダー Greg Alexander [ これも原文通り。Gregg Alexander。 ] が彼らの歌のバックボーンに私の許可を得ることなく、サンプルにして使用したのである。鷹の目を持つ XTC ファンがこれを見つけたのだ。そうして、チーン! 「クリスマス用にお支払い、ありがとうございました。」 
[ 「 Maybe You've Been Brainwashed Too 」で使っている。New Radicals - Maybe You've Been Brainwashed Too (CD, Album) at Discogs ]

 蒸れるヘッドホーンを縛りつけていると、私は、パジャーズの素晴らしいリヴァーブの技巧を思い出させるのである。音は、虚焦点から発せられ仮想の距離を進み我々の耳に届くのである、正に、眩惑の夢の状態に在る様である。音風景は、正に正に、「 Settlement 」である。バンドのメンバー全員が渾身の力を発揮して新しい楽器を弾いている。更に、素晴らしい混淆を創り出しているのである。私のアコースティック・ギターは、デイブの12弦ギターと大変に上手く織込まれている。しかも、そのギターの音は、轟々と鳴るトムの壁の上で滑っているベースの音と奇麗に調和しているのだ。素晴らしい構成である。「私共は、お望みであれば、皆様のキッチン周りをきれいに片付けますよ。」

デイブ: 
 この曲は、このアルバムで私たちが最も「パワー・バラッド」に近づいたものです、とは言え、可成り素晴らしい曲ですし、本当に感情への訴求力が強い歌です。私たちは、この歌を十全に評価したでしょうか? 私はとても早い12弦のギターを遣り直したものです。好機と言うのはあるものなのでしょうか? 1982年のアメリカ・ツアーに失敗して戻った後を受けて、この歌にはビデオの制作を進める価値があると、何所かで誰かが考えたのに違いありません。それも、「 No Thugs 」のビデオも創られていなかったのにも拘らずなのです。兎も角、後に、『 Look Look 』とタイトルが付けられて発売されたプロモ・ヴィデオのコンピレーションに追加される価値があるビデオではありました。私は、今、心に思っていることがそのまま口に出てしまいました。 
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2018年06月01日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 4

「 Yacht Dance 」 
アンディ:
 子供時分、私は「 Messing About On The River 」と言う題のジョシュ・マクレー Josh MacRae のレコードを愛好していた。幼い私の耳を強く惹き付けたのは、残響を伴って滴り落ちると言う、文字通りそのままの跳ね返る水の効果音のワルツであったのだ。この歌には、それと同じ様な処置をするようにとヒューに依頼したのを、私は記憶している。聴き手はきっと自分の顔に飛沫がかかると感じるであろう ( おや、ごめんなさいまし、おくさま )。実はである、我々のワルツは、ワルツとして始められたのではないのである。また、ヨットの事でも決してなかったのである。

 この歌が我が頭中に現れたのは、「 Collecting Honey For The Queen 」と言う題名でなのであった。しかし直ぐ様に、蜜蜂としての何の様な経験を持ってこの愚かしい思い付きが出たのだ?と私は考えたのである。非常勤のワスプ[ 胡蜂、同様の腰の細い蜂の類、気難し屋の意味も ]であったか…、或いは僧であったかも知れぬ。けれども、ビー[ 蜜蜂、同様の丸い蜂 ] であったことは一度もない。それで、私はそこから一部を取り出したのであった。それは、基音が移動して、それがメロディになるある和音なのである。楽想は、瞬く間に、四分の三拍子に変化した。このメロディには四分の四拍子よりも相応しかったからである。このウィーン特有の拍子は、直ぐ様、「何かが散乱している」と言う考えを思い付かせ、、、そして、閃いたのである! 聴き手に潮の泡を投付けよう! と。これは、ヨットで帆走している恋人たちの歌なのである。私を非難したり信じたりする波うつ海を帆走しているのである。私は、後に暫くの間私の妻と成った女性との婚約時代の初めの頃には、こうした事を沢山に経験したのだ。私は、「汚らしいビートニク」あるいは「跳ね返りのやす広告描き」に過ぎなかったからだ。( これは、フレッド・エモニー似の、広告会社経営の彼女の父から言われた酷い侮蔑である。 [ フレッド・エモニー:イギリスの喜劇役者 Fred Emney - Wikipedia ] ) 

 その頃、コリンと私は、ペンタグルの「 Light Flight 」を再び良く聴く様になっていたのだ。[ Basket of Light - Wikipedia ] 元々は、1969年のBBCのテレビドラマ『 Take Three Girls [ Take Three Girls - Wikipedia ] 』のテーマソングに使われていたものだ。そのドラマの音楽、当時、私たち二人共がそれを聴いていた事は確かであろう。私の考えでは、その音楽が、私に於いては、「 Yacht Dance 」で表に現れ、彼に於いては、「 English Roundabout 」で覗いているのである。その二曲共に於いて、私たちは、突然にアコーステイックに変貌し、変わった拍子を選んだのである。それも、カチャカチャ鳴るドラムとゴムバンドのベースを伴うのである。私たち二人が、時を同じくして、これを持ち込んだと言うのは奇遇な事である。 

 実はである、中間部の水が滴る音はアンクルであると、私は断言しよう。それは竹なのである、巨大なのである、材木の一種なのである。ストーン・ルームに入る際、毎度、そこに置いてあるそれにぶつかるのに、私は辟易していたのだ。或る時である、それは私の肩を強く打ちつけて酷く痛め付けたのであるが、( 奇妙にも私はよく覚えている ) すべての細片と繋ぎ目が一度に音を立てたのである。それは海と言うよりも渓流の音の様ではあったのだが。而して、それを録音したのであった。私はアンクルの側に立ち、その忌わしい物を枠ごと叩いたのであった。Voila! 即席水の出来上がり!ね・、水を加えるだけ、、、 [ Voila : フランス語、ほらね、と言う様な:voilà - ウィクショナリー日本語版 ] 

 私が記憶する限りに於いては、この曲をライブで演奏したのは一度だけである。栄えある連合王国のテレビのロック番組『 The Old Grey Whistle Test 』の中でである。この曲は、難しく少々厄介なものなのであるが、全員が立派な仕事をしたのであった。 

デイブ:
 私は、対位法を使って、ワルツを刻むアコースティック・ギターに対して付ける繊細なギターのメロディーを書いたのです。それをナイロン弦のスパニッシュ・ギターで演奏しました。( 皆さんが注意深く右側のチャンネルに耳を澄ませば、お聴きになれるでしょう。 ) そのギターの入手経路は不明なのです。ですが、それが、「 Raimundo 」であったことは覚えています。コリンの持ち物だったのではないでしょうか。けれども、この時の録音に使って以来、一度もそのギターを見た覚えがないのです。ただ、1982年3月のテレビ番組『 The Old Grey Whistle Test 』ヘの出演の際に、その同じギターを私は使用したのですが。指で全く淀み無く弾くことは私には難しかったので、とても柔らかなナイロン製のピックを使って弾きました。弦は新しいものでしたから、録音中には再調律する為に何度も中断する必要がありました。出来上がった録音には、私は大変に満足をしています。中間部の不思議な竹のチャイムの様な音は、アンクルで奏でられているのです、アンディが「演奏」しました。リチャード・ブランソンが度々行くバリ島での休暇から持ち帰ったものなのでした。不協和のアコースティック・ギターでのソロは、アンディがヤマハのギターを使って弾いています。 
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2018年05月23日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 3

「 No Thugs in Our House 」 
アンディ: 
 私の楽屋のパーティーでの演し物の一つは、ジョニー・ウインター・スタイルの「反逆の雄叫び」だったのだ。何れ程の大声で何れ程に声を伸ばせたのか? 不安定なPAシステムを数年間使った御陰で、私の肺は鞣し革の様に成ったのだった、それに、ステージの後のビールと少々の刺激があった。小さなジェットが離陸する音と殆ど変わりのない騒音を私は出し得たのだ、為に、世界中の更衣室を空にしてしまった。理由はよく分からないのだが、私はその叫び声を抑制させてこの歌に使うことを選んだのであった。その時には、これが相応しいと思ったのである、その理由を読者諸氏に語ることは出来ない。 

 音楽上のことでは、「 Summertime Blues 」をアコースティック・ギターで大きな音で掻き鳴らし速度を速めるとどうなるか、と言うことを考えていたのである。リハーサルでは、この歌は実に生彩を放っていたのだ。テリーのモータウン式パチンのフォービートで高くロブされて、デイブがフェンダーのリフでギャンギャン吠え立てて、コリンが咽喉をゴホゴホ言わせて打ち出すのである。不吉な小歌である、だが、間違いはない。これは、「瀟洒な」郊外の家庭へのホガース風訓話なのである[ 『放蕩一代記』放蕩一代記 - Wikipedia ]、自分たちの息子が右翼的フーリガンであることを知らない家庭である、彼らは息子が危険人物であることを自覚すべきなのである。我々は正したと私は考えている。良い家庭の人々と言うものは、全く以て非道な側面を秘密裏に持つ傾向がある、と言う極めて明らかな事を言うのである。一つの事実がこれを私に思い付かせたのではあるが、それは、バンドが使っていた弁護士の一人の助手の事なのである。一見では人好きのする礼儀正しい青年なのである。ある時その彼が私に告白したのである。土曜の午後に、強かに酔ってサッカーのグラウンドに傾れ込み血まみれの乱闘を始めるよりも楽しいものは何もない、出来ればそうする、と言ったのである。彼の週末は、少なくとも一人を病院に送らなければ終わらないのであった。彼が就いている高い地位の職では、「ばか」にブーイングは出来兼ねるのであった。 

 この不浄の騒乱劇の小品がシングルとして看做される筈のものだとされたのは、望外の喜びであった。無論、これは果無く消えてしまった。ではあるが、これは、束の間、ポロックの紙人形劇場のスリーブを纏い飛んだのである。私は、こうした素朴派のスタイルが真に好きなのである。それは変わらずにいる。つい先日、この様式の魅力的な歴史を纏めた、A. E. ウィルソン著作の『 Penny Plain And Twopence Coloured 』を一部手に入れたばかりなのである。[ Penny plain, twopence coloured; a history of the juvenile drama, (書籍, 1969) [WorldCat.org] ] 45回転シングルのスリーブの裏面にある詞書は、恰も、ヴィクトリア朝時代に広間で催されていた演し物の粗雑な一枚紙のリブレットを見る様ではないか。[ チョークヒルのアーカイブ: Chalkhills: Reel by Real: XTC: "No Thugs In Our House" ] 歌詞の「 Dad's a judge and knows exactly what the job of judging's all about 」では、謂わずもがな、リチャード・ブランソン、貴方を私は見ているのだ。 


デイブ:
 この曲は、私がロンドンからマーティンのギターを携えて帰って来たその夜に録音されたのでした。そうです、この驚嘆させられる楽器のマーティン・ギターのお披露目だったのです、少なくともテープの上ではですが。素晴らしいエディ・コクラン[ エディ・コクラン - Wikipedia ]風のイントロはアンディが奏でています。それに対して、テリーはモータウンの薫りのするビートで応えています。コリンは自分の1959年製P. ベースを使っています。仕上げには、何かノイズが必要だったのです。私は、ストラトキャスターの低音の二本の弦を使って暴漢風なギターのリフを考え出していました。しかも、ストラトキャスターを非常な大音量のマーシャルのベース用アンプに繋ぐのです。私たちは、ストラトキャスターとマーシャル・ベースアンプをストーン・ルームに設置して、ドラムのテイクを再生しながら、録音を始めたのです。何と言うことでしょう、大音量でそこには立っている事も聞くことも出来ない程でした。こうして、私は、ガラスのドアを密閉されたストーン・ルームで追加のバッキング・トラックを重ね録りしたのです。( 今に至って、私は、キドリントンとウッドストックの住民の皆様に眠らせなかった事を謝罪いたします。 ) それは、岩隗の様に巨大だったのです。酷い事に、それは、ミックスの段階で去勢されてしまいました。アルバムからは、三枚目で最後のシングルでした。 
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2018年05月16日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 2

「 Jason and The Argonauts 」
アンディ: 
 さて、『リップリーの「信じようが信じまいが」博物館』[ Ripley's Believe It or Not! - Wikipedia ニューヨーク Ripley's Believe It or Not! 博物館 ]の類いである。コーラス部分のメロディは、( 少なくとも、私の頭中ではそうなのである、 ) カーク・ダグラス Kirk Douglass 主演の1958年の映画『 Vikings 』[ The Vikings (1958 film) - Wikipedia ]のテーマを元にしているのである。簡単に調べただけだが、音楽を書いたのはは、マリオ・ナンシベーネ Mario Nascimbene と知れた。さて、つい前日、映画を観た時以来久方ぶりにそのテーマ音楽を聴いたのであるが、「 Jason 」は全くそのテーマ音楽とは似ていないとの結論に至った。如何様にして、私は、これ程までに違えてしまったのであろうか? とは言え、映画『 Vikings 』から私は良い曲を得たのだ。私の脳は、或いは、呼び出し音の配列が間違っているのかも知れない、または、非常に遠方の海岸を「召還」する感覚があってこの様にしたのかも知れない。映画『 Jasnon and Argonouts 』[ Jason and the Argonauts (1963 film) - Wikipedia ]は、殆ど関係してない。少年時代に特に好んだ映画ではあるのだが。 

 この歌により、我々は、「旅行」の歌を演目の内に持つことと成った、それは間違いがない。英国の安心して居られる地域から遠出をした結果なのである。この者、スウィンドンの公営団地に住まいする卑小な鼠は、1977年に初めて海外に渡航した折には、アムステルダムの郊外に有るホテルのホテルの一室をコリンと相部屋にしたのだが、目覚めた時、クリスマスの日の子供の様に、己の目を信じ得なかったのだ。アムステルダムは、我々の為に、風車を設えてさえいたのだ。それ以来、回遊は全地球に拡大されていった。アメリカ合衆国、日本、オーストラリア、ニュージーランド、…、それにそれに、止めどなく。私は数年の間に純真さを盗まれてしまっていた。詰まりは、愛用のギター、アンプ、エフェクトペダルやものものを盗まれたのだからだ。脱線してしまった。そうなのだ。ワールド・ツアーは、己の心を押し広げることは確かだ、更に、マネージャーの預金残高を押し上げることも確かだ。 

 バンド内に於いては、この歌の題名は「 Jason and Chintzy 」と成った。グループ所有のバンに雑然と放置されていた卑猥な雑誌のポルノ俳優から採られた名前である。chintzy チェンシー、この可哀想なギャルは、ブロンドの鬘を被ったレス・ドーソン Les Dawson [ イギリスの喜劇男優。1931年生まれ、1993年没。1970年代のテレビで、Cissie and Ada と言う老婆の役が有名。Cissie and Ada - Wikipedia ] に似ていた。我々全員が、何れ程にイアソンの「 membrum vitae [ ラテン語: 活気有る肢 ] 」に驚嘆したことか。その意図、用途はまるで交通信号のようであった。一番上は、生き生きとした赤。その下には、具合の悪そうな黄。一番下には、酷く不健康な薄緑なのである。ポルノダイエットの安全副作用症? 

 録音は頗る愉快で、驚く程に容易で一度で閘門を開き轟く波に乗ったのである。テリーの一閃の八拍目のスネアは、彼と私が作ったのであるが、二人共が好んでいたストーンズのチャーリー・ワッツの「 Street Fighting Man 」での打ち方の感覚を手本にしたのである。その一打ちは、曲を押し進めるのである、そして曲は進行を休むことがないのである。宏大な大西洋を表する中間部は楽しい。だが、それ以上に、催眠的なのである。如何様にしても宏大な外洋を表現したい、海原の波を表現したいと思案したのであるが、ヒューは茫漠としたサルガッソ海を省いてコーラス部分に入る様に我々を説いたのである。古代の水夫と同様に、我々も、我々を魅了して来る蒼碧の広がりの中で神隠しに会わんとしていたのである。繊細で目を眩ませる様々なギターの音形、私が歌っているその声は、あちらこちらで多重化され、1ファゾムの深さのリヴァーブとフランジの波に洗われているのである。今これを聴くと、私は、曲全体が何とサイケデリックなことかと驚くのだ。誰がデューク達をここに連れて来たのだ? パチョリの匂いがする…、ニシンも! 

デイブ:
 私の好んでいるXTC の五つの歌の一つです。リディアン・モードのラーガ・ロックへのちょっとした冒険でした。アルバム『 Black Sea 』の「 Travels in Nihilon 」を生み出したのと同じ素材なのです。歌詞のテーマもやはり似ています。テーマは探求者なのですね。発見の旅の途上で、あらゆる風俗の陰鬱で醜悪な真実を暴いて行くのです。水夫のテーマは、リヴァーブやディレイを使ってギターの音が海の中で水が跳ね返っている様に聴こえると言うとても「湿った」ミックスに依って増幅されています。アンディは、私のギブソン ES-335 を弾いています。ネックのピックアップのコイルを一つだけ使って、それを直接ヘリオス社のコンソール・デスクに繋いでいるのです。それと同時に、ゲオルグ・ノイマンのコンデンサーマイクをギターの共鳴室から1インチだけ離して設置してアコースティックな信号を捉えたのです。コリンは、直前に入手した、1959年製フェンダーのプレシジョンをアンペグ社のアンプ SVTを使って弾いています。私はリッケンバッカーを弾いているのですが、ステレオに別れている線を、ギターのブリッジの所のピックアップの信号はハーモナイザーを通して直接にコンソール・デスクに繋いでいるのです。テープの速度を落として録音しています。最後の部分では、ギターは半分の速度で録音しました。後から、アンディが、シンセサイザーで「法螺貝」ホーンを入れました。プロフィット V で作ったものです。 
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2018年05月09日

English Settlement 2016 アンディ・ソング・ノート 1

「 Senses Working Overtime 」 
アンディ: 
 書いている時にはシングルになることを念頭に置いていてそれに出来た時にもシングルになるだろうと幾分かは自分で思っていたにも拘らず、ヴァージン社がこれをシングル候補に挙げた時には、私は驚いたのだった。「寄せ集め」の様な纏まりを欠いた感じが可成りするのではないか、失禁を患った患者の様に、展開[ movement ]が多過ぎるのではないか? 何と申し上げるべきか…、音符が多過ぎるのではないでしょうか? しかし、会社はそれを選んだ。そう、私は面喰らったのだ。私が元からそう言われてシングル用に書いたのだったとは思わない。 

 シングルとして私が書いたと言うのは、「1,2,3,4,5」の部分を言うのである。読者諸氏には出来ればこの様にご想像頂きたい。時は、1981年である。スウィンドンの空き店舗の上の階に二部屋がある、その中の階段の取っ付きの部屋である。バンドのステージ活動の合間の数日を次の作品を書く為にやっと確保出来たと言う日だった。私の心中では、次の様な対話が行われていた。「必死に書けばシングル用の一曲が書けなくはないのじゃないか、アンディ? 簡単なフレーズと言うのは、覚え易いフレーズと言うのは? 数える歌は大抵が分かり易い。マンフレッド・マンの「 54321 」の様にだ。あれはキャッチーだった、それなら、僕も、その辺にある数字を入れてしまえば良いだろう。さて、何を歌おうか、五つのもの、そう、指か? いや、親指がちょっと問題だ、五つのもの…、「五感」! これだ!」 

 勿論、最初から全部揃った形で思い付いた分けではない。中世的なイントロ及びヴァースは間違いで出来たのだった。Eのコードに上げる意図だったのだけれど、注意をしていたなかったので、間違ったのだ。E♭に似た和音になったのだった。私には、その和音の大地的な感覚が好ましかった。鋤で畑を耕している様を思わせたのだ。それが、歌詞の大部分を齎すことになる。つまり、和音に聴き取ったイメージを私は言葉に叙述するのだ。何を聴き取ったか話すこと、それが歌詞になるのだ。AからAsus の部分がこれに繋げられた。歌詞の「 and all the world is football shaped 」の所、Who 風の部分だ。そこは、別の歌、「 The Wonderment 」と言う題名を付けていた歌だが、そこから一部分を切り取って来たのだった。私は、それを「 Senses 」に入れて、ヴァースからコーラスへしたのだった。他の部分は、「 Tissue Tigers 」になった。アメリカ先住民がバッファローを扱うのと同じ様に、パートリッジのテントでは、無駄なものは一つもないのである。 

 これを聴くと、デイブは失礼にもこう言ったのだ。「パーチィ、これは、「 All Too Much 」を書き直しただけだね。( ジョージ・ハリスン作のビートルズ・ナンバー )」 彼は、壷を押さえていた、文字通りにである。善いものも悪いものも、人生を作り上げる感覚、その全てに於いての正に大食だったのだ。その日の午後、この歌の誕生を自分のボールペンで慌ただしく走り書きした時には、私はその事には気が付かなかったのだ。Apple社の顧問弁護士は、気付くことはなかった。「 Sorrow 」の様ではなかったのだ。[ The Merseys の1966年のヒット曲。ビートルズの「 All Too Much 」の一部がこの曲の冒頭のメロディに似ている。The Merseys - Sorrow (Vinyl) at Discogs この曲は、前年の1965年にアメリカのグループ、The MacCoys がアルバム『 Hang On Sloopy 』で発表した曲。Hang On Sloopy (album) - Wikipedia ] 

 レコーディングについては覚えていることはごく僅かだ。精神的傷害を負うこともなく完遂したようである。テリーは、またもや、ドーンと言うレゲエ風バス・ドラムを三拍目に入れている。恐らくはである、ポリスに伴って丸一か月ツアーを行ったことは、我々が思うよりもずっと深く影響しているのであろう。デイブにとっては、この歌は、他でもなく、リッキー12ストリングをビンビンと鳴らすことに主眼があるのである、これを録音したかったのだ。それにしても、何と言うすごい音だ。この者、グレゴリーが素晴らしいバロック様式の織物を編んだのだ。コリンはフレディー・フレットレスだ。それにそう、この曲で彼の奏でる音は素晴らしい、海鳥が急降下する様に滑り落ち潜るのだ。リズムには忠実なのだがメロディアスなのだ。また、我々は、第2ヴァースでは、民衆的なボートの漕ぎ手と成って、「 di di di di di [ 第2ヴァースのダイ/ダイ/…と言う低い声のコーラス ]」と言うバッキング・ヴォーカルを吹き込んだ。コリンは、これを捩って「 Lady Di di di 」と歌って、皆を笑わせたのだ。 

 この歌をシングルとしてリリースする際には、( 私が驚いたことには ) ヴァージン社は、想定される「ラジオ用尺」に戦々恐々となり、中間部のカプレットの一つを切り落としたのだ。何故だかは私には分からない。こうした長さへのヒステリー症は、他のレーベルでは起こってないのだ。クイーンの「 Bohemian 」、ブームタウン・ラッツの「 Mondays 」も両方共に時間の長いシングルである。[ 「 I Don't Like Mondays 」: I Don't Like Mondays - Wikipedia アルバム版は4分19秒、シングル版は3分47秒。クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」は5分55秒で違いは殆どない。 ] 何故に、我々は、ヴァージンの精管切除術を受けなければならなかったのか? 削除された行は、「 buss skidding on black ice 」の辺りであった。嗚呼、噫、よく覚えている。そのカプレットの次には、短い挿入が脇からのバッキング・ヴォーカルで入る所だ。その挿入句は、「 England's glory / a striking beauty 」である。これは、勿論、有名な銘柄のマッチのことであり、あるファンが書いた「 England's glory......STRIKING ME 」とは違うのだ。そのファンは、この部分は、スタジオでアンディが切り倒された所だと言うのだ。それ故に、それ以降のツアーが出来ないと。違う…、私はそう書いてない。ポールは死んでいる、あまりにも明白だ。 


デイブ: 
 当時、私たちは予想もしていなかったのだけれど、1982年1月にリリースされたこの歌はアルバムをチャートに送り込んだのでした。歌と言うものは、その時の流行からそう遠くへ離れて行く分けにはいかないものだから、この歌の様な地味なイントロダクションの歌は、人間の本質に信仰を取り戻させる様な仕方で、聴衆の関心を惹いたのでしょう。素晴らしい歌です、バンドの全員がこの歌では卓越した演奏をしています。そして、これ以降何年にも亘って、この歌がバンドを永らえさせたのです。また、XTC の音楽の語彙に、12弦リッケンバッカーが入ったことを朗々と宣言している歌でもあるのです。私が演奏している部分は全部私が書きました。2011年に、オランダのコンベンション・センターに行ってマリリオンのステージに上がった時のことですが、この歌を演奏すると、3000人の観衆がコーラス部分を一緒に歌うのに、私はとても驚いたのです。多くの後追いの XTC ファンにとって、やはり、この歌は XTC への「入口」であるのです。 
[ 2011年3月26日 : Marillion Weekend 2011 Holland // 25 March - 27 March 2011 ]
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2018年01月31日

安土巴土離児 自照『英格蘭居留』4

白の時代には上気してたのを緑の時代には落着いて  
[ この章題の原文は:Feeling up white getting it down ]

 この歌集の録音は私たちにとっては楽なものであった、真実そうなのだ。マナー・スタジオは、私たちが『 White Music 』で初めてスタジオを体験し心躍らせた時よりも、少しばかり拡張されていた。裏側に石造りの別館を足していたのだ。多くの演奏家が激賞していた、倫敦のゴールドホーク・ロードに在ったヴァージン社所有のタウンハウス・スタジオに似た録音室である。その結果たるや、「カッポーン!」である。生のトランジエント現象[ 振幅が高く、持続が短い音の波形。 ] が、この石造りの部屋で得られるのである。特にドラムズでそれが顕著であった。これは、八十年代の音と成ったのであるが、その大部分は、ヒュー・パジャムに依るのである。彼の『 Drums and Wires 』『 Black Sea 』『 Peter Gabriel Third 』での試行の成果なのである。遂に、マナー・スタジオは、これをたっぷりと供給し得る態に成ったのであった。ドラムズばかりではない、アコースティック・ギターの撥音にも、種々の打楽器にも、この湧き立つ躍動感を必要とする全てのものに、「叫ぶ」暈を被せたのである。 

 私たちは、予算が管楽器の奏者を使う程にはないことを承知していた故、必要な管部には、臆すること無く、一つの旋律ずつプロフィット・フィフス・シンセサイザー及び単音のコルグ700S を用いて作り上げたのだ。( 例えば、「 Ball and Chain 」、例えば「 Runaways 」、等等である。 ) 今日日の私の耳には、斯の音は、過日の時代を刻んだ数少ない作品の一つと成っている。とは言い乍ら、彼の時代の魅力の一つであると述べる者も居るようである。斯の馬車馬が如きシンセサイザーは、其の他の音色をも供給して呉れたのだ。チェレスタに似た音色を「 Snowman 」の導入部でのピアノの上に糖衣の様に被せているので在るし、又、「 No Thugs 」に於いてはハーモニウム風の「ふっ」と言う音を、又、「 Down In The Cocpit 」に於いては模造のハモンドを、又、「 It's Nealy Africa 」に於いては木片とマリンバの音を、「骨袋」もそう[ 2016年版のノートには、backbone とあるけれど、bag of bone の間違いだと思う。 ]、又、「 Fly On The Wall 」はあの五月蝿いリズミカルな唸音なしに有り得るや否や。彼は700S が供したものであるのだが、正に、蒼蝿ではないか。 

 アコースティック・ギターを把捉することは、戦慄く思いをさせられた。私たちにとっての、真実に、新しい方向性であったのだからである。斯のアコースティックと言う新しい方向性ではないのだが、矢張り、アコースティックと関連はあることであったのが、エレクトリック・ギターに極めて至近距離でマイクロフォンを設置すると言う技術なのである。そして、斯のマイクロフォンで捉えた透明な音を、電気的に増幅されて得られた音、それが何の様な処置で得られた音で在ったにしても、其の上に被せて音を混淆させたのである。斯の方法で、エレクトリック・ギターには、幽玄なアコースティックの煌めきが付与されたのである。私たちは、これを幾つかの曲で使用した。例えば、「 It's Nealy Africa 」。例えば「 Jason and The Argonauts 」。斯の二曲は、私の記憶の芽を揺り起こすのである。其の他の録音に於ける意図については、各曲ごとの註釈に記したので、諸氏にはご一読願いたい。  



安土巴土離児 自照『英格蘭居留』、終わり、 
誤訳、疑問点をご指摘下さると、助かります。
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2018年01月26日

安土巴土離児 自照『英格蘭居留』3

ある標柱アフィントン 
 何と見事であったことだろう、この馬あるいは「ヴまっこ」は。而も、如何にも聖像的であったのだ。この馬が楽団全員の知ることになったのであるが。私を何とも驚愕させたのは、これを使ったものが以前には一人も居なかったと言うことだ。素朴派の作品の様なこの目を引く馬は、アフィングトンの大地に身を横たえているのだ。それは、ある意味、土地の徴であるのだ。倫敦への汽車旅行の際には、私は、幸運を願って、必ずそれを目に留める様にしている。私たちがサーン・アバスの出身であったのなら、不都合な結果になっていたのは明らかである。[ Cerne Abbas サーン・アバスはイングランド西南部ドーセット州にある村で、巨人の地上絵が丘にある事で知られている。Cerne Abbas Giant - Wikipedia ] 斯の地には、コロラドに於いては販売に支障を来たしたであろう地上絵が存するのである。 

 私たちが歌集の装幀を早くから選び出していたのは明らかである。おそらくは、通し稽古の時であったのではなかろうか、私が覚えているのは、或朝私たちの贔屓の美術斑デザインクリニックがマナーを訪れて創案を提示した事である。またこの様なこともあった。マナー滞在中に私の誕生日が在ったのだが、ヴァージン社はケーキを送って来たのだが、それは装幀を模したものであったのだ。ヴィクトリアスポンジケーキではあったけれど、案に忠実なものであったのだ、それ故に、私は、直ぐ様、装幀にはヴまっこをと望む様になったのだ。それも、ヴまっこは緑の芝を折り込んだ凹凸のある紙片に石灰の白い色で浮き上がらせなければならないと思ったのだ。紙とインクで出来る限り本物に近付けたいと思ったのだ。更に、楽団の名前と歌集の題名は目立たない様にすべきであると考えたのだ、即ち、表紙側ではなく、植物的な緑の裏面に薄く印刷されるべきだと。ヴァージン社は、それが余りに「目立たない」と考えた様だ、第二版からは、私たちの名前もはっきりと白い文字にしたのだ。繊細な差異の妙味は減じてしまった。 

 読者諸氏にはご留意を願う。微妙な妙味を望んだ場合、私たちのアメリカの版元を説き伏せて彼らが提案して来たものを却下させるのには、長い道筋が必要であったのだ。アメリカの版元が、早い段階での「ヴまっこ」の草案を見たことは確かである。困惑した彼らは斯の様に返信して来たのだ。「彼は何である也。家禽に見える也。我等は亜米利加版用に当社所属の画家に既に馬の絵を描かせたところ也。我等は此方の方が良いと考する所也。」 其れは、私たちが望んでいた、黎明期の土着的な鉄器時代の画像とは、余りにも懸け離れたものであった。突如出現したゾンビに似た半ば生き半ば死んでいる不気味な生き物、マイ・リトル・ポニー[ 1981年にアメリカの玩具メーカー・ハズブロが発売した My Pretty Pony と言う玩具から発展して1982 年から販売されている玩具。My Little Pony - Wikipedia] の様であり、それが、丘を越えてスウィンドンに遣って来るかの様に見えたのだ。私たちは、全員が失笑した。直ぐ様に屑篭に捨てた。[ 原文では、語源がケルト語の bin を使っている。これは、「ヴまっこ / Dobbin」との洒落なのだと思う。 ] アメリカの版元が採った返報は、音盤二枚の歌集を一枚に短縮したことであった。しかしながら、結局、私たちの「馬」は装幀に載ったのである。
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2018年01月18日

安土巴土離児 自照『英格蘭居留』2

 Ape house から2016年にリリースされた、180gビニール盤ボックス・セット『 English Settlement 』に付けられた、ブックレットに載せられた、アンディ・パートリッジのノート、その2: 




マナー・ボードへ  [ 館の大食卓へ ]  
 私たちはマナーに於いては終始本拠地に居る感を持っていた。何故かは分からない。事に依れば、自分たちの印税でその館をどういった方法でか購入したと思っていたのかもしれない。或は、アルバム『 White Music 』シングル「 Are You Receiving Me? 」を製作し、( 演出が過ぎる )テレビ・ドキュメント『 XTC At The Manor 』を撮った事に依る慣れだったのかもしれない。当時の私たちはその館が自分たちのものであると思っていた様に、私は覚えている。それも可成りの期間の事である。それは、大漁の鮪サンドウィッチ、紅茶海に浸された噸程のタンノックの楂古聿薄餅から生じた思念であった。マナーに於いては空腹になることはなかったのである。 
Tunnock's - Wikipedia

 私たちは、先立つ二枚の歌集に於いて技師を務めた、ヒュー・パジャムをそのまま選ぶ心算であったのだが、この歌集では彼は共同指揮を執ることになった。技師と私たちの中間で橋渡役であった、スティーブ・リリーホワイトには降板して貰い、ヒューと私たちだけで激務に取り掛かり、この歌集を製作してしまおうと考えていたのであった。スティーブに対して疑義があったわけではない、ただ単に、私たちの自信が固まりつつあっただけである。然り、私たち全員が製作の指揮を執った。「 let's do the show right here 」と言うものである。[ 1952年の映画『 The Greatest Show on Earth 』の中の台詞 ] 更に、『 Settlement 』の音の調色板は、楽団の誰もが新しい楽器を購入して、誂えたものであった。私のものは、安物のアコースティック・ギターであった。( Yamaha であったかも知れぬ。 ) 所有していた他のものは、テレヴィジョンの子供番組での懸賞品として渡してしまっていたからである。デイブは、長年彼が夢見ていたリッケンバッカーのエレクトリック12弦ギターを入手していた。コリンはアイバニーズのフレットレスを、テリーは撃ち方兵器庫にロト・トムを加えていた。新しい楽器を入手すれば、人はそれを多用したくなると言うものである。其れ故、『 Settlement 』はアコースティックに、また、ビリビリ響く様に、また、滑る様な音に、また、ゴム草履をひっぱたく様な音に、仕上がったのである。 

 録音作業の過程では、雰囲気は極めて良好であった。歌を良い音で上手く録音している過程に於いても、機械が作動していない間の橡の実遊び[ 紐を通したトチの実を打つけ合って相手の実を割った方が勝ちと言う子供の遊び。 Conkers - Wikipedia ]に於いても、良い雰囲気であったのだ。また、私たちは自由奔放であった70年代初頭の楽団を思い出しては笑いながら終わる事が無いと思える様な一覧表を書いては部屋に張り付けてもいたし、酔ってジャム演奏をしたりもしたのだ。何もかもが、気さくに且つ若々しい熱意を持って行われた。麦酒の栓を開ける権利を得ようと躍起であったのだ。素晴らしい革新的な歌集を創る過程にあったのだ、私たちの全員がそう覚えているだろうと、私は思う。  
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2018年01月12日

安土巴土離児 自照『英格蘭居留』1

 Ape house から2016年にリリースされた、180gビニール盤ボックス・セット『 English Settlement 』に付けられた、ブックレットに載せられた、アンディ・パートリッジのノート、その1: 


イントロ・ダクトテープ [ ダクトテープ - Wikipedia ]

 この歌集は私にはついぞ変わることなく『English Settlement』と題付けされる様に思われていた。この歌集は稽古の時には題名を持っていた唯一のものではないかと、私は覚える。そう題名されるのは「間違いない」と予感していたのだ。スウィンドンの郊外凡そ五マイルに存するアフィントンの丘に馬の像が彫られている、それは青銅器時代のものである、即ち、アングル族あるいはイングランドの部族がブリテン島の海岸に到着するよりも遥かに以前のものなのだが、その馬の像を表紙の絵に採ったのだが、それとこの歌集の題名とは何らの関わりはないのだ。そうではないのである。この題名は、他には非ず私事に関わるものなのだ。私が思いを廻らせていたのは、私の居住まいなのだ。平静な暮らし振り、定住している毎日、本物の家屋、…、そして子供たち。この時以前の数年間、その様なものを私から隔てさせていたもの、ホテル/バス/更衣室/飛行機と言った場面が終りなく続く様に思えていた有様に背を向けたいと言う私の願望であり、そして、地球全球を駆け巡ると言う所業を私が止めたということなのである。 

 斯くの如き思案は、それに先立つ六ヶ月の間、私の頭中を吹き抜けていたのだが、それは、ゐずまひを正す様な新しい考え、処方薬を止めることが出来ると言う考えが、吹き込んだものであった。しかし、私は自分が依存症であるとは自覚はしていなかった、と言う点にはご留意頂きたい。突発的な薬への依存症からの解放は、合衆国での公演旅行中に、妻のお陰で起こったのであった。ロス・アンジェルスに於いてであったのだが、私は公演が終わった後、他の者たちを伴い飲酒をしに出掛けた、すっかり「ご機嫌」の体で宿に戻ってみると、それは悪名高いトリピカーナであったのだが、妻が、ジアゼパムを探すには及ばない、と告げたのだ、何故なら、妻はそれを便所にすべて流したと言うのであった。何故かは分からないのだが、私は激昂した。極めて恥ずかしいことに、調度品を投げ飛ばし、抽き出しの中身を放り出し、部屋を破損したのだった。私が斯様な行為を採ったのは、その時一度限りであった。ただ、私がその場所の見栄えを良くしたと主張する者も居るのである。今考えれば、斯様な切迫した時機に自分の支えが下から薙ぎ払われたかの様に思ったのであろう。 

 幾らかの間を置いて、私は鎮静し、「妻は正しい。私には薬は要らない。薬の効能はまるでなかった。」と思える様になった。噫、幼年時代の私よ、お前は何と愚かだったのか。未熟なその頭脳では、十三年を常用した後、突然の中止の為に重篤な結果が引き起こされるだろうとは、予想だに出来なかったのだ。禁断症状が私を待ち構えていた。 

 斯の洗浄が私に齎した好ましい事柄の一つは、分析体と言う新しい思考の状態であった。私は、様々な事柄を明晰に考えることが出来た。XTC の惨憺たる財政状況がその一例である。略五年間に亘る公演旅行を終えても、私たちは一ペニーも見たことがなかった。何故? 今やそれに傾注すべきではないのか? 公演で演奏し易い曲ばかりを書いたのは何故なのか? 絵具箱にはあらゆるクレヨンがあるというのに、白黒のままで描くのか? 正にこの点である! 公演から得る金を見ることがないのなら、何故態々するのか? レコーディング・グループとならないのは何故なのか? スタジオに留まろう。書く時間をもっと取ろう、慌ただしく公演旅行に出るのは止そう。然り、他の事にもっと時間を…、家族との時間も。 

 斯くの如き次第であるから、『 Settlement 』は、公演旅行の演目には採るつもりはないと想定して書いたものなのだ。キングスヒル・ロード 42 の古い店の上の階の部屋に座り、そこは義母の所有であったので好意で新婚の私たちは無料で使っていたのだが、私は、私たちの「スタジオ時代」の最初の歌集と私自身が目しているものへ収める歌を書き散らしていたのだった。オックスフォードシャーに存するマナー・スタジオでの録音会では、楽団の各員個別に接触して、これは「公演旅行に出ない」作品であると自分は考えていると言う事を平静の態で伝えたのだった。皆が、「ふむ、君は乗り越えられるだろう、アンディ」或いは「何故に、公演旅行に出ないと思うのだ?」等と答えた。何たるかな、若き日の私よ、この水晶の様に鋭敏な我が頭脳は、公演旅行に出掛けそうではないか、未だに疲弊していると言うのに、或いは、もう然うではないと言うのか。 
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2017年10月02日

「 English Roundabout 」2016年LP版のソング・ノート 

 僕が不安視していた歌は、結局、僕が一番好きな歌になったみたいだよ。スタジオで後から考えることは、大抵、嬉しい出来事になるんだ。( デモ・テープを得意げに見せびらかすよりも、ずっと気持が昂るもの。 ) それに、この歌、本当、ジャム・セッションとあまり懸け離れてないの。四分の五拍子のスカ・レゲエの変種だね。ライブで演奏するのが大好きだったの。どこでも好きなところを取り上げられたからね。 この歌は気持よく風が通り抜ける様で、何の憂慮もなくて…、…、込み入っていないんだ。気に入っているの。僕が書いたのは、実際の交通状況だかどうか、確かには分からない。僕の無意識は説明を呉れないんだもの。ただ、地元の新聞スウィンドン・アドヴァタイザーは、説明して呉れるの。僕が書いたものは、スウィンドンにある「マジック・ラウンドアバウト」だって新聞に書いてたよ。僕が運転をする時、あそこを嫌だなって思ったとは言えないんだけど。誰も、「マジック・ラウンドアバウト」に不平を言っているとは思えないもの。あれは、とっても良く考えられたものだもの。僕の「ラウンドアバウト」はよく考えられても、計画立てられてもいないの。たぶん、人を庭園の小径へ連れて行って呉れる様なものなのね。  
コリン・モールディング   
[ 「この歌は気持よく風が通り抜ける様で、何の憂慮もなくて…、…、」と訳した文の原文は、「 It's breezy with no angst... uncomplicated. 」。ここで使われている「 angst 」は、キルケゴールの哲学用語。『不安の概念 Begrebet Angest 』から英語に取り入れられた語。 ]

 以前に述べたことだけれど、私たちは、この歌を1981年の春のツアーで演奏していたので、既に、僅少の準備は出来ていたのだ。四分の五拍子での愉快な遠足は、私たちには初めてのものだった。私は、歌詞については、未だに理解が出来ていない。一方、演奏については、頗る技能を要するもので、特に、終部のフェイド・アウトの所での、ずっと続く、上昇するリフは、12弦ギターには難行だった。  
デイブ・グレゴリー    
[ 「 Ball and Chain 」は、4月2日からのアメリカ・ツアーの4月8日の公演から、 
「 Snowman 」は、5月2日から、セット・リストに入っている。 
「 English Roundabout 」は、上記のアメリカ・ツアーから帰った後の5月14日からの英国国内ツアーでセット・リストに入れられている。 ]
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2017年09月27日

「 Fly on The Wall 」2016年LP版のソング・ノート 

 レコード会社はね、これを聴いて、「おふざけか」と言ったの。僕たちは、声に特殊処理をしたのだけれど、会社の人はそれを嫌がったの。僕の歌の中ではたぶん一番変わっていて、いまでもずっとまぶしく光ってるよ。でも、僕は、「うわむき」だから、好きなんだ。歌詞はね、ただのおしゃべりが元だったの。意味のないおしゃべりの後、自分の言ったことに意味を持たせようとして、筋がある様にしようとしたのね。人って、時々、そうするよね。フライ・オン・ザ・ウォールのドキュメントは、80年代の初め、大流行してたの。名前は何だったか、まあ、何にしてもね、大体そんな風に言ってたの。その頃って、僕は、後になってタイトルを付けて意味がある様にしてたの。シンセサイザーの蝿が飛ぶ音は、とっても可笑しくて、歌詞の真面目な意見も、それでみんな軽くしてしまってるの。たぶん、蝿の真似で、ちょっと、真面目な歌詞をからかってるの。それで、埋め合わせになるか知ら。とっても可笑しいから、これを聴くのに飽きる事がないの、にこにこ要素があるからね。でも、人生がそうだとは言えないけど。 
コリン・モールディング  

コリンの「 Real By Reel 」( その項を参照のこと )の続編。何もかもにファズ、ヴォーカル部にまで! 何もかもがブンブン唸っている。私は、リッケンバッカーのネックのピックアップの音をBig Muff[ https://en.wikipedia.org/wiki/Big_Muff ] のファズ・エフェクターを通してコンソール・デスクに繋いだのだった。ブリッジのピックアップの音はフェンダーのスーパー・アンプのビブラート・チャンネルに繋いだ。アンディは、小さなコルグ700S シンセを使って蝿の羽音を作った。コリンは、フレットレスのアイバニーズのベースで滑走し回っている。とても楽しい。  
デイブ・グレゴリー
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2017年09月22日

「 Ball and Chain 」2016年LP版のソング・ノート 

Ball and Chain   
 開発者にブルトーザーで棲家から追い出される人たちへ向けてテラス・ハウスから歌いかける僕の讃歌なの。たぶん、M62 モーターウェイの真中当りにあるそういったテラス・ハウスの一つが僕に歌を思い付かせたんだったと思う。スウィンドンに周りは荒れ果ててるのに一軒だけ長い間抵抗して立っているテラス・ハウスがあったのね。どうしてそれを僕が擁護したいと思ったか、理由はもう確かには思い出せないの。スウィンドンが、そもそもそんなにたくさんもなかった、とっても「立派な」建物を取り除いた、と言うだけのことだけど。僕の小歌は何も変えなかったよ。今でもそのまま。ただね、ブルトーザーの運転席に座っている操縦士は、たぶん、次の切妻壁に取り掛かる時には、掘削機とタワー・クレーンを歌ったこの楽しい歌を歌っているだろうね。ラジオで聞いたことがあるんだよ。それで今はどうなっているか、スウィンドンには、テラス・ハウス・タイプの「立派な」建物はほんの僅かしかないんだ。僕は、堆肥撒布機を持って、市議会に行って、壁にざらざらに塗った方が良かったのか知ら。ほら、トローブリッジでの出来事みたいに。聞いたことがない? とっても可笑しい話しなんだけれど、他の機会に取っておこうね。 
コリン・モールディング   

これは、私たちがこの歌の録音を試みた二度目のものだ。アラン・ウインスタンレイの失敗の後、再度試みたのだ。12弦リッケンバッカーをダブル・トラックで録音している、しかし、「 ooomph 」が足りない。アンディは、アイバニーズのアーティスト・モデルをマーシャルを通して、フランジャーを掛けている。ここでまた、以前使っていた小さなコルグ 700S シンセサイザーを使っているのだと思う、「ホーン」のメロディにだ。最後のコーラス部分での三度繰り返すギターのアルペジオは、12弦では弾くのが難しかった。[ 2分45秒あたり、歌詞の「 turned to stone 」の後 ]ヒューとテリー、本当にテリーがそうしたのだが、コーラスでバッキング・ヴォーカルをとっている。理由は忘れてしまったのだが、この曲を録音している間、私たちは大きな口論をした。それから、この曲は、アルバムからの二枚目のシングルとしてリリースされた。
デイブ・グレゴリー   
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2017年09月15日

「 Runaways 」2016年LP版のソング・ノート 

Runaway 
 これは、崩壊した家庭から家出した子の歌で…、まるっきり「マッカートニー領域」だなと僕は思うけど、三人称で語られる歌なの。一人称の「私」でよりも、三人称の方が僕は上手く行っていたもの。実際には起こっては居ない、想像しただけの物語りを紡ぎ上げて出来た人物像は、僕よりも本当らしいのだもの。自分の腹蔵を全部それにあれやこれやを出して見せると言うのは…、ちょっと英国的ではないもの。この歌が、オリンピック・ランナーのスティーブ・オベット Steve Ovett を扱ったテレビのドキュメンタリーのテーマ曲に使われたことがあるの。まったく間違っているよね、全然繋がらないもの、でも、そんなことはお構いなし、僕の歌の何か呼び起こす様な始まりのところは、ランナーの番組にぴったりの様に思えるものね、ランナーが競技用シューズを履いているか、ピカデリーの明るいネオンに照らされているか、なんて関係無いんだ。それに、たぶん、『長距離ソング・ライターの孤独』にもね。僕があの物語りの中に入り込むことができたらなあ、そのままだと思うの。これまでも言ったけれど、あの歌がどうして出来たかなんて、僕には分からないんだ。  
[ 1982年の ITV の番組。データベースとしては見つけられないのだけれど、YouTube にも投稿されていて、視聴は出来る。プロデューサーは、元陸上選手で ITV 、チャンネル4 でスポーツ番組の解説をしている、エイドリアン・メトカーフ Adrian Metcalfe 。 ] 
https://en.wikipedia.org/wiki/Steve_Ovett オベットはモールディングと同じ1955年生まれ。
コリン・モールディング 

 私のこの曲での仕事は、メインのシンセサイザーの部分だ、プロフィットを使っている、それだけだ。アンディは、6弦と12弦のギターを弾いている。それに、シンセサイザーのトランペットも。テリーは、ほとんどを石造りのレコーディング・ルームで過ごし、レゲエ・スタイルのトムトムの音を作り出した。コリンは、新しく手に入れたフレットレス・ベースを使って、成果を上げている。それから、フランジを付けたバッキング・ヴォーカルも彼だ。如何にも「電子音楽的」なメロディとコーダ部分でのベーゼンドルファーのピアノも彼なのだ。常々、ヴァースがもう一つ、第三ヴァースがあればな、と思っているのだが、そうはならなかった。残念だ。時間がないのだ。 
デイブ・グレゴリー  
[ グレゴリーの最後の文はどういう意味なのだろう? 実際には第三ヴァースもあって録音もしたけれどレコードには残さなかった、と言うことなのか? それとも、モールディングは書いていないのだけれど、物語りに結末を付ける第三ヴァースがある方が好ましいと、グレゴリーは考えていると言うことか? ]
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Steve Ovett のドキュメンタリー

 モールディングの「 Runaways 」がテーマ曲として使われている、イギリスの陸上選手 Steve Ovett スティーブ・オベットのドキュメンタリーは、YouTube にも投稿されていて視聴出来る。

 例えば:https://www.youtube.com/watch?v=yOxKgcQosSc 

 歌詞の内容などは、テレビ番組に使用する際には、本国でもあまり顧慮されないのかもしれない。
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2017年09月06日

『 English Settlement 』2016年版 テリー・チェンバースのノート

 Ape house から2016年にリリースされた、180gビニール盤ボックス・セット『 English Settlement 』に付けられた、ブックレットに載せられた、テリー・チェンバースのノート: 


1 私は常に歌に合う最善のドラムを叩く様に努めていたと思う。激しいシンバルであれ、ハイハットを閉じるのであれ、ドスンと来るトムであれ。正直に言って、試合終了後三十年も経つと、どういう経過だったかは思い出せない。ただ、歳を取ればそれだけ以前の自分より良くなった、ということだ。 

2 自然なドラムの音を録る、一つのテイクを録るのに時間を掛ける、と言う時代は去ったのだ、と私は思う。私たちが当時していたのは、最先端のことであった。時代は変わる。今では、コンピューター・プログラムとエレクトリックの時代だ。それは、私の理解を越えたもの、理解したいとも思わないものだ。私が唯一言えることは、私たちの創った音は全く歳を取らない、と言うことだ。『 English Settlement 』がまた現在に発売されても、今日的な意義を有していると、私は思う。この事実に、私は誇りを感じている。 

3. 他のものよりも演奏するのが楽しかった歌、最も力強く演奏に最適だったと、私が感じているものは次ぎの歌の数々だ。これを挙げたのには差して理由もなく、挙げた順序にも意味はない。: 「 Ball and Chain 」。この歌は、興味深い、そして、在り来たりでないドラムのパターンを持った、当時でも今でも重要な歌だと、私は感じている。「 Senses Working Overtime 」。この歌については論を待たず、私たち全員が、初めからヒットすると、そして、バンドのテーマ曲になるだろうと予感していた、と私は思う。「 Jason And The Argonauts 」。「 No Thugs In Our House 」。この二曲については、楽しく演奏出来たのを今でも思い出せる。「 All Of A Sudden 」( ビデオ・クリップでは、イアン・グレゴリーがドラムを演じている。 )。この歌も楽しく演奏出来た、「 Snowman 」も同様だ。「 Heaven Is Paved With Broken Glass 」については、この歌については、私はとても善く出来た歌だと考えていて、私の意見ではあるが、他の歌を差し置いて決勝に進むべきだったと思うのだ。私は、この歌は当時見落とされてしまったと思う。この歌は、適当な発表場所を与えられるべきだったと確信しているのだ。また、私たちが計画した二枚組よりも、一枚のアルバムの方がもっと受け容れられたのではないか、と思う。済んでしまってからなら、良策が言えるものではある。 

4. ウッドストックにあるパブ、ボートマン Boatman に( イエスの ) アラン・ホワイトのレンジローバーで行ったのだが、リチャード・ブロンソンも一緒だった。この男は、「軽食」の為に現金を持って来たことは一度もなかった。わたしは、ブロンソンが自分のポケットに手をやると言う仕草を見た覚えがない。 
[ Boat Inn Thrupp, canal side pub kidlington ]

5. ブランソンは、録音の合間に、家具の移動の仕事を私たちにやらせたのだ。  

 私が今住んでいる「窟屋( インターネットもなければ、外部との接触もないので )」では、オリジナルの二枚組『 English Settlement 』は見つからなかったのだが、その代わりに、アメリカのエピック・レコードが発売した一枚もののアルバムがひょいと出て来た。資金の問題か、マーケット上の理由からで一枚にされたものだ。この輝きを放つ歌の数々の半分 ( あるいは、半分にも充たないだろうが ) の量で、三十年経った今、それも、オーストラリアの好天の下で日に4リットルのビールを毎日飲んだこの脳なのに、私の記憶は瑞々しく再生された。 

 アルバムを探し回っている最中に、私は、アフィントンのホワイト・ホースのあの目の部分の石灰を偶然に見つけてしまった。どうやってオーストラリアにそれを持ち込んだのか、どんな方法で出来たのか、今の私には見当もつかない。オーストラリアの税関を通った経験がある人ならば誰でも、私が言おうとすることは分かるだろう。 

 一つ前のアルバム『 Black Sea 』の次に何をするかは、ある意味、難事業だった。重圧があったのだ。だが、大量の歌があったのだ。そのどれもが録音されて当然だった。その中から、盤に刻む価値があると判断されるものを選び出せば良かったのだ。バンドには、二人のソングライターが居た。為に、選択は難しくなった。とは言え、その選択はバンドとしての私たち、そして( ソングライターの ) 各個人のみにあるのではなかった。マネージャー、レコード会社、…、すべての人間とその飼犬が意見を持っていたのだ。結果として、このアルバムは、これだけの歌が盤に刻まれた。( そして幾つかは刻まれなかった。 ) しかし、このアルバムには、私たちのバンドの最高の瞬間を含んでいる。それは、今に於いても、最高である、あの瞬間なのだ。 

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2017年08月23日

『 English Settlement 』2016年版 デイブ・グレゴリーのノート

 Ape house から2016年にリリースされた、180gビニール盤ボックス・セット『 English Settlement 』に付けられた、ブックレットに載せられた、デイブ・グレゴリーのノート:  


1.  
 1981年6月2日火曜日、XTC は、カーディフ[ ウエールズの首都 ] のトップ・ランク Top Rank でイギリス本土最後のステージを行った。その時には誰も、それが最後になるとは気付いていなかった、けれど、兆候は至る所にあったのだ。3月30日にサンフランシスコで始まった一つ前のワールド・ツアーが終わったばかりだった。そのツアーで、バンドは、5月まで合衆国に留まっていた、しかも、( 幸いなことには短いものであった ) 南アメリカ大陸での公演も含んでいたのだ。その間、三日間だけ、病気でキャンセルをした、我々は疲労困憊していたのだ。バンドは、5月5日に、帰国の途に付いた、だが、二週間の休暇の後には、次の17日間のイギリス国内ツアーが始まった。 
[ カーディフのトップ・ランクは1982年に閉館。 ]
  
 件の全仕事は、アルバム『ブラック・シー』から最後の一滴を搾り取ることを目的に課せられたものだった。当の『ブラック・シー』は XTC に新しいファンをもたらした素晴らしいレコードである、ただ、富は別であった。そのアルバムの歌は、比較的、ステージでの再演が容易であったし、そのアルバムからのレパートリーは、結果、直に観客受けするものとなった。けれど、我々は、その歌の数々をやり過ぎたのだ、為に、止まることのない踏み車 ( 当時の我々の状況を象徴する言葉である ) に疲憊し始めていた。更には、我々は、少々の飽きの為に、早急に何か、何にしても、新しい新鮮なこれまでと違うことをしたいと感じていたのだ。 

 1981年は、アルバム『ブラック・シー』からの三枚目のシングル「サージャント・ロック・イズ・ゴーイング・トゥー・ヘルプ・ミー」の発売で始まったのだが、このシングルは、『トップ・オブ・ザ・ポップス』とBBCラジオ1の放送予定曲に含まれた御陰で、英国チャートの上位20位に入ることが出来たのだった。その時点では、我々の議論は、XTC の次に企画されているレコーディングのプロデュースを誰に任命するのが妥当であるか、と言うことに主に割かれていた。二月には、エンジニアのクリス・キムゼイ Chiris Kimsey と短い面談を行った。彼のそれまでのの仕事には、ローリング・ストーンの『エモーショナル・レスキュー』( トップチャートに入っていた。 )、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの作品、テリー・レイド[ 『 Rogue Waves 』 ]、ピーター・フランプトン[『 Where I Should Be 』]等があり、彼の履歴は、その十年間に亘って成功を収めていると言う強い印象を与えた。彼は感じもよく、仕事に熱心で、私たちに好意的で、当時の我々が知己を得ている人の中では居ない類の人だったのだけれど、我々は機会を逃してしまったのだ。彼はストーンズの『タトゥー・ユー』のプロデュースの仕事を受けて、行ってしまった。結果、我々は三月にロンドンのタウンハウス・スタジオに戻ったのだ、兎も角は、新しいシングルを録音して、次のアルバムのリリースが準備出来るまでの糊口を得る為だった。 

 コリンとアンディは、それぞれ、新しいシングルの候補として、「ボール・アンド・チェイン」「パンチ・アンド・ジュディー」を既に書き上げていたし、ヴァージンレコード社は、クライブ・ランガー Clive Langer とアラン・ウィンスタンリー Alan Winstanley の助力を確実にしていた。直近のマッドネスとティアドロップ・エクスポローデスの成功を考慮してのことだ。だが、ランガーは、初日に責務を解いて貰っていた、仕事の完成はウィンスタンリーに任せて去って行ったのだ。我々は結果に満足していた、しかしながら、レコード会社は、「否」だった。少なくとも新しいアルバムが進捗するまでは、棚上げに決まったのだ。 

 新発売のシングルを宣伝もしないままに、ツアーのスケジュールは進められ、我々は、自分たちの判断で、三つの新曲をステージでのリストに載せることにした。その三曲とは、上演の為に練習したコリンのもう一つの新曲「イングリッシュ・ラウンドアバウト」とアンディの「スノーマン」、それに、前述した「ボール・アンド・チェイン」である。新しいアルバムは製作中であったのだが、そのアルバムに於いては、新しく手に入れた楽器が我々の音のパレットに新鮮な色をもたらしていたのであるから、その三曲は、どれもが、レコーディングではステージとは違った塗装が施されるであろうと思われていた。まず、スタジオに遣って来たのは、多音のシンセサイザー、シーケンシャル・サーキット・プロフィット5だった。アメリカツーまで後三日の時に、クリーブランドで入手したのだ。遂に、自分たちでプログラム出来る、そして、コードが弾けるキーボードを、我々は持つことができたのだ。 

 何日目かの夜、我々は、シカゴのパーク・ウエストで演奏したのだが、その時、バックステージに、ソングライター/プロデューサー/憧れの人の訪問を受けたのだ。その人の音楽は、その直前の数ヶ月に亘って私のソニー・ウォークマンをほぼ占領していたのだが、その人とは、トッド・ラングレンである。彼は、その夜、街でユートピアと共にショーを行っていたのだが、我々のステージの最後に間に合う様に駆け付けたのだ! 私にはそれが信じ難いことだった、けれども、彼は真正のファンの一人だったのだ。その時、私はこの出来事の将来に於いての意味を少しも理解していなかった。 
[ XTC がシカゴの Park West でステージを行ったのは、1981年4月7日。アメリカ・ツアーは、4月3日から。トッド・ラングレン/ユートピアの「 Camouflage Tour 」はその日、Chicago Auditorium で。4マイル程の距離。車で18分。 ]  

 アメリカツアーの助演をしてくれたバンドたちは、今から見れば、とても興味深い一種の見本市になっている。英国から我々に同行したのは、ヘイゼル・オコナー Hazel O'Connor と彼女のバンドだ。初日のウエスト・コーストthe West Coast では、スタン・[ カモフラージュ ]・リッジウェイ率いるウォール・オブ・ヴードゥー Wall of Voodoo 。ジュールズ・ホーランド Lools Holland と彼のバンド・ミリオネアズが五日間助演してくれたのだが、その五日間にはベネズエラでの二日も含まれている、その時には、無名のウェールズ人のベースの名手ピノ・パラディノがバンドに入っていた。そして、東海岸でのステージでは、四日間、ジョーン・ジェットと彼女のバンドが助演してくれた。ジョージア州のアテネでは、当地で人気のあった、R. E. M と言う名前のバンドが、ステージのオープニングを飾ってくれた。  
Hazel O'Connor - Wikipedia 
Wall of Voodoo - Wikipedia 
Jools Holland - Wikipedia 
Pino Palladino - Wikipedia 
Joan Jett - Wikipedia 
R.E.M. - Wikipedia  

 最後の全英ジグザグ経路ツアーが終わった[ 1981年6月2日 ]。バンドはスウィンドンに戻った。何よりも、休暇が必要だった。そうして、作曲して次のレコードを用意しなければならなかった。二ヶ月の間に、アンディは、15曲以上の曲を書き上げた。更に、コリンの5曲もあった。それはつまり、新しいアルバムは収録曲が不足している為に失敗に終わると言うことは有り得ない、と断言した様なものだった。演奏者として、私は、この大量の曲をある種の賜物と考えたのだ。それ故に、私の持つ知識、技術を最大限に提供して、歌が最高の水準に達する様にしようと、臍を固めたのだ。一方、プロデューサー探しは続行していた。我々のこの時以前の二枚のアルバムで共に働いた、スティーブ・リリーホワイトは、ダブリンの若いバンド、U2 と言うバンドだ、の仕事に入っていた。彼らの二枚目のアルバムだった[ 『 October 』 ]。我々は、有能なエンジニアが望ましいと決定したのだが、それは、スタジオに入る前にほとんどの曲は完全にアレンジされた上に修得済みなので、エンジニアの方が費用が安く上がるだろう、と言うことだった。 

 八月中旬に、地元のスタジオに我々は再度結集した。音楽全体を入念に練習し、新しい楽器を自分たちの手に十分に慣れさせた。私は、その時までに、新しいギター用アンプリファイアを購入していた。小さいけれど活き活きとしてよく響く1963年式の10インチのスピーカー二つが付いたフェンダー・スーパー・コンボ。[ Fender Super Reverb - Wikipedia ] 50ワットのマーシャル社のベース用アンプリファイアー、それはそれは耳が潰れる程大きい音だったのだが。[ Marshall JTM45 - Wikipedia ] 私は、常時、それを12インチスピーカー四つのH+H キャビネットを通して使っていた。最も重要なことであるが、私は、ついに、12弦のリッケンバッカーを見つけることが出来たのだ。過日、自身にこれを買うと約束していたものだ。子供の時、1964年だったが、ジョージ・ハリスンがビートルズの歌「 You Cant Do That 」で弾いているのを聴いて以来、その音色が私の耳から消えることはなかったのだ。他のギターだが、まず、先立つツアーで使用したギブソン・レスポール・カスタムがある。そして、1960年製ギブソン・ES-335、ギブソン・SGジュニア、ギブソン・ファイヤーバードだ。それらが、『ドラムズ』や『ブラック・シー』で使った馴染みのストラスキャスターとES335に加わったのだ。我々は、一挺の大きなサイズのアコースティック・ギターを所有していた。安価なネックがボルトで着けられているイタリアのエコー社のランジェルだ。それは、アルバムでは主にリズム・パートに使った。アンディは、BBCの土曜朝の子供番組『 Swapshop 』[ Multi-Coloured Swap Shop - Wikipedia ]で持っていたドイツのアントリア社[ Antoria - Wikipedia ]のアコースティック・ギターを早々に賞品として出品してしまっていた。( 選りに選ってそんな時に! ) そして、新しいヤマハのアコースティックを手にしたばかりだった。そのギターは、新しい曲の数々のかなりのものに直感をもたらしたのだ。メロディックでパストラルと言う面だ。そして、それ以前の彼の特徴だった刺々しい要素は影を潜めていたのだ。彼は、依然として、自身の1976年製アイバニーズ社のアーティストを弾いていた、それに加えて、私のギターをどれでもだ、勿論、私が使用していない時にだが。そのギターをマーシャル社の二段積み( half-stack )100ワットの2203MVアンプで鳴らしていた。コリンは、おそらく前年のツアーでスティングの演奏を見て聴いて感化されたのだろう、アイバニーズ社のフレットレス・ベースを新しく卸していた。要素として変化がなかったのは、ドラムズだ。テリー・チェンバースは、彼の実証済みで信頼している方法で行進を続けた。それ故、XTC の嘗ての音に繋がりを保持していたのだ。  

2.   
 12弦リッケンバッカーの発見は、私にとっては啓示であった。1976年製ステレオ配線、黒の360/12だ。[ Rickenbacker 360/12 - Wikipedia デイブ・グレゴリーのホームページの写真 ] 弾くのには厄介な代物。用意がたくさんあり、弦を張るのもその数が多い。だが、直ぐに私はこの楽器への愛着を感じたのだ。それがどんな種類の音楽であれ、音楽を作り出す為に要する努力と言うものは、徹頭徹尾、音楽への愛が動機になっての行為なのだ。それはバンドにとっても大当たりだった、気が付くと、私は、新曲の大半でこのリッケンバッカーを使っていたのだ。シンセサイザー・プロフィットの使用は、最小限に留めた。我々は、この楽器が熱くなると音が外れてしまう、と言うことに直ぐに気が付いたからだ。設計者がそれを認識していたことは明らかだ、「 re-tune 」と言うボタンがあって、音程を修正出来る様に設定されていたのだから。コリンのフレットレス・ベースと彼が使い慣れたエプソン・ニューポートは、双方共に、アップライトのドッグハウス・ベース[ ダブルベース ] よりも音を出し易く、アコースティックな音像と言う印象をより強めている。 

 ヴァージン社は、新しいアルバムのレコーディングに、以前のレコーディングの時よりも少々多くの時間を与えてくれていた。不鮮明な記憶だが、( 会社が所有していた ) マナー・スタジオを6週間占有出来たのだったと思う、その間に、我々はそこで作業が出来たわけだ。その時間を最大限に活用して、出来得るであろう二十曲と言う多数の曲を録音しようと、我々は決意していたのだ。それが、二枚組になるとしても、我々の決意は変わらなかったのだ。嬉しいことに、ヒュー・ハジャムがプロデューサー問題を解決してくれた、彼が、共同プロデューサ兼エンジニアとして、我々の元に戻ることを肯がったのだ。我々にとっては思いも掛けないことだった、と言うのも、その直前の彼の仕事、ジェネシスの『アバカブ』とポリスの『ゴースト・イン・ザ・マシーン』はチャートで秀でた業績を築きつつあり、彼は引く手数多だったのだ。マナー・スタジオでは、パジャムは、ハワード・グレイ Howard Gray と言う若い有望なエンジニアに補佐させた。グレイ自身は、数年後には、アポロ440と言うバンドの仕事で成功を手にした。 

 アンディ、コリンそれにテリーは、以前、XTC のファースト・シングルとファースト・アルバムの製作でジョン・レッキーと共に、マナー・スタジオで働いたことがあった、1977年のことだ。私は、1980年の夏にこの場所を訪問したことがあった。BBCのテレビ・ドキュメンタリーの撮影隊が、新しいシングル「タワー・オブ・ザ・ロンドン」をレコーディングする様子を記録する( と謳って ) と言うことだった。( 『 XTC At The Manor 』と言う番組。) 偶然なのだが、リチャード・ブロンソンは、彼の恒例のガーデン・パーティーをその週末を選んで館で行うことにしていた。自然と、撮影隊は催し物の多くをフィルムに収めることになったのだが、当然の成り行きとして、それは保存されて、都合良く彼の会社の宣伝になると言う結果になった。我々がその機会を逃した、と言うこともない。我々は、ブロンソンを引っぱり出して演技させ、くだらない短いシーンを撮影した、それが後日、「ジェネラル・アンド・メジャーズ」のプロモーション・ビデオに使用したものだ。 

 シップトン荘園 Shipton Manor は、起源を17世紀に遡る、総面積27エーカーの田舎の荘園領だった。リチャード・ブロンソンは、総額35,000ポンドと言う大金でそれを購入していたのだが、更に400,000ポンドを払って、館の修繕とレコーディング・スタジオへの改修を行った。館は、六つの主寝室、二つの浴室、撞球部屋、テレビジョンのあるラウンジ、食堂から成っていた。それに二階には四部屋の召使い部屋がある台所が付いていた。応接室は、大きくて広々とした暖炉が終日薪を燃やしているのが、何よりの特色だった。湿気があり隙間風が通り気味が悪いと言うのが大抵の古い家の性質なのだが、シップトンの館はそうではなく、暖かく心地が良かった。ある種の理想の家であり、そこに腰を降ろすと去り難くなるのだった。それぞれの持ち場には、愛想の好い魅力的な女給が配置されていて、食事は、間違いなく、オックスフォードシャーで一番だった。また、ワインセラーもそのコレクションの豊富さを誇っていた。午後四時を回る頃には、女給の一人がお盆に載せた紅茶と焼きたてのケーキ、それも毎日違うケーキを運んで来た。パーセリー女史のご好意だった。彼女は、1930年代に学校を卒業してからずっとこの館で働いて来た管理人なのだ。  

 バンドのレコーディングに掛かる費用には、衣食住も含めると、ブロンソンが考えていたことは明らかだ。ヒッピーの燻らせていた夢想を、彼は、現実の仕事の上で実行に移したのだ。 

 館からは草に覆われた長い堤を見下ろせたのだが、それはゆっくりと傾斜して人造湖へと下っていた。その湖には、鴨の家族と気性の荒い渡りの雁の番いが一組住んでいた。地所の南の方には、ゴーカートのコースがもう既に造られていた。カートは、スタジオのメンテナンス・エンジニアのトム・ニューマンが整備していた。母屋の右には、大きな古い栗の樹が立っていたのだが、その下には、暖炉に焼べる綺麗な薪が積み上げられていた。シングル「センシズ・ワーキング・オーバータイム」の裏ジャケットを飾る写真の中で、XTC の面々はこの栗の樹の下でポーズをとったのだ。[ Chalkhills: Reel by Real: XTC: "Senses Working Overtime"] アンディが抱きかかえている猫は、館に住んでいた動物たちの一匹だ。かわいい黒い猫で、スタンレイと名付けられていたが、いつも、スタジオのコントロール・ルームのパッチ・パネルの側でぐっすりと眠っているのが見受けられた。栗の樹の側には、一棟の鳩舎があって、白鳩と盛りの来たねずみ色鳩の棲家になっていた。ただ、動物たちの中で、最も我々に好かれていたのは、二頭の大きなアイリッシュ・ウルフハウンドだった。ブートレグとライティングだ。ふたりは、玄関ホールと台所の間の渡り廊下に居住権を得て、うずくまっていた。薄明るい時には、ふたりを踏み付けない様にするのには、大変な注意が要った。ふたりは決まって定期的に、足で引っ掻いて、埃や古くなった毛それに蚤のピョンを辺りの地面に落としていたのだが、ケーキが運ばれて来ると、呼ばれてコントロール・ルームに入って来た。ふたりは、従順で温厚な性質だった。満月の夜にでも、吠え頻ることもなかった。 

3.   
 スタジオは、母屋に繋げられて設けられていた。以前はスカッシュテニスのコートであった地所に新しく建てられたものだった。コントロール・ルームには、二台の24トラックのテープレコーダー、ステューダー A800 [ Studer - Wikipedia ] が備えられていた。それに、1970年代中頃にイーストレーク・オーディ社 [ Eastlake Audio ] によって導入された32チャンネルの [ analogmix.com ] ヘリオス Helios 制御盤があった。スタジオの端には、最近になって建て増しされた、本物の石を使った部屋があった。今では聴き間違い様もない1980年代のドラム・サウンドにとって必須の「間近の反響」を捕える為だった。メインスタジオには、ハモンド・オルガンの C3 [ Hammond organ - Wikipedia ] と、素晴らしいベーゼンドルファー社のグランド・ピアノが備えられていた。左端には木製の階段があり、そこから狭い作業歩廊に上がれた。歩廊は右端の「本物の石部屋」にまで伸びていたのだが、それは、マイクを天上近くに設置することを考慮してのことだった。

 我々は十月五日月曜日にスタジオ入りして、その日の内に、最初にレコーディングしようとリハーサルをして来た、アンディの「ダウン・イン・ザ・コクピット」のベーシック・トラックを作り終え、ヘッドホンのバランスを確かめた。火曜日は、この曲の作業を続行し、また、コリンの「フライ・オン・ザ・ウォール」にも取り掛かり、これらを仕上げた。それからの一週間と三四日は、このペースで作業を続けた。テリー・チェンバースは、平均して一日で二曲を仕上げていた。スウィンドンでの六週間のリハーサルの効果は明白だった。しかしながら、ヒュー・パジャムは、エコー社のアコースティック・ギターの音色には不満を持っていた。以前の二枚のアルバムに於いて、後ろで鳴らされ音を補強する役割を当てられていたのは大目に見ていたのだが。アンディの作品「ヨット・ダンス」と「ナックルダウン」を検討している時に、彼の堪忍袋はとうとう破れてしまったのだ。「我々が使用出来うるもっと良いもの」に取り替えるべきだと、彼は主張した。私は、急き立って、現金で400ポンドを持ちロンドンへと向かった。そして、美品の1973年製のマーティン社のD35を手にして戻った。それは、ブリッジにバーカスベリー[ Barcus Berry ]のトランデューサー[ ピック・アップ ] が付けられていて、レコーディングの後にあるであろうステージのライブでも使えるだろうと、私は考えていたのだ。ヒューは、マイクロフォンを設定すると、アンディにギターを持たせてスタジオに入れた。即座に、音の改善が明らかになった。それからの一日中を、アンディは、アコースティック・ギターの録り直しに費やした。 

 アコースティック・サウンドへの試行はある種の強迫観念気味になっていた。私の使い古したギブソンES-335 は、セミ・アコースティック仕様だったのだが、アンディは、そのアコースティックの音をスタジオのマイクで拾って、ピックアップの回路を電気信号になって通って来る音と混ぜると言うことを考えついて、それをいたく気に入っていた。この遣り方を、アンディは、「ジェイソン・アンド・ザ・アルゴナウト」と「イッツ・ニアリイ・アフリカ」で、自分のパートを録音した。パジャムは、弱いアコースティックの音をノイマン社のKM84 コンデンサー・マイクで拾っていた。ピックアップの回路の音は直接にレコーディング・コンソール・デスクに入力された。アルバムの巻頭の曲「ランナウェイズ」では、アンディの弾く12弦リッケンバッカーが目を引くものになっている。それもやはり、外のマイクで拾ったアコースティックの音と、アンプを通した音を混ぜているのだ。 

 我々は、アルバムのほとんどの曲にリッケンバッカーを使い、そのステレオの特性を最大限に利用した。「フライ・オン・ザ・ウォール」では、ブリッジに付けられたピックアップの澄んだ音をフェンダー・スーパー・アンプのヴィブラート・チェンネルに送信し、一方、ネックに付けられたピックアップの音は、私のファズ・ペダル、ビッグ・マフ[ Big Muff - Wikipedia ]を通してから、直接にコンソール・デスクに繋いだのだ。「ジェイソン・アンド・ザ・アルゴナウト」と「メルト・ザ・ガン」では、ネックのピックアップの音は、スーパー・アンプに送り、ブリッジの音は、イーブンタイド・ハーモナイザー [ Eventide, Inc - Wikipedia ] を通してコンソール・デスクに送った。同じ設定は、「センシズ・ウォーキング・オーバータイム」と「オール・オブ・ア・サドン( イッツ・トゥー・レイト )」でも使った。それに、シングルB面の「ティッシュ・タイガー」でもそうなのだが、この場合は、ブリッジとネックを反対に繋いでいる。「イングリッシュ・ラウンドアバウト」と「ボール・アンド・チェイン」と「スノーマン」では、フェンダーのアンプを使って、モノーラルで録音している。 

 私は、ベーゼンドルファー社のグランド・ピアノに強く惹かれた。スタジオが空いている時には、いつも座ってポロンポロンと鳴らしていた。スティービー・ワンダーやスティーリー・ダンの曲の和音をボイシング[ ボイシング - Wikipedia ]して色々試してみたりしたのだ。その間、私は、自分がバート・バカラックにでもなった様な気分でいた。そのピアノが出す音の世界は、私の家のアップライトのホンキー・トンクの音の世界とは、まるで違う宇宙の様だった。私は、このピアノをアルバムのどこかに使うところがあれば良いのにと思っていた。あまりに良い音で、私たちには使い様もなかったのだ。私は、自宅で、コリンの「ブレーム・ザ・ウエザー」に付けるピアノアレンジを仕上げていた。かなり良く出来ていて、シングルの候補になっていた。私は、それがシングルになるだろうと思っていたのが、残念なことに、結局は、第一弾シングルのB面になってしまった。これからは、もっとピアノに傾注しようと、その時に決心したのだ。  

 このノートを書くに当たって、おおよそ二十年ぶりにヴィニール盤に刻まれたオリジナルのこのアルバムを聴いてみたところ、私は、二つのことに驚かされた。一つは、アナログのマスターが供している豪華な程の暖かさだ。「マスター」が、その暖かな応接室に聴く人たちをそこに招き入れてくれるのだが、人々は心底歓待されていると感じるのだ。それは、1984年に「リマスター」され発売されたコンパクト・ディスクが聴衆に押しつけたデジタルの複製版とは、正反対だ。あれは、冷たく、耳障りで、平板で心浮き立つところがまるでないのだ。コンピューターの「パッケージング / 圧縮」については、私は話題にしたくはない。 

もう一つは、ドラムの音を録るのに、何れ程の注意が払われ精進が積まれたか、と言うことだ。実際、ミックスされた段階で、ギターの音に呼応すると言うことに関しては、ドラムの音は完璧なのだ。現在、スタジオの中で自分の楽器を最上の状態で録音すると言うことについて、この三十年の間に、私は幾分かは学んで来た、と自負はしている。けれども、当時に於いては、音像技術の点では、私はまだまだ未熟だったのだ。すなわち、このアルバムで聴くことの出来る、幾挺ものギターの音は、テクスチャーとして他の音と絶妙に混ぜ合わされているのだ。けれども、再度弾ける機会を与えてもらえるのなら、私は、自分の出す音ばかりでなく奏法についてももっと注意深くしたいと思っている。その上に、このアルバムでの私の演奏はヴォリュームが上げられ過ぎていると強く感じるのだ。 

 「 Fi 」を可能な限り「 Hi 」に保ちたいと希求していたので、ヒューは、ミックスダウンを二分の一インチのマスター・テープ[ 1/2″ Master Tape | Product Categories | ATR Magnetics ]に毎秒30インチの速度で行うことにしたのだ。そう決めたのは、ヴァージン社が我々にアルバムを二枚組で発表することを許したと聞いていたからだ。ミックスダウンは、1981年11月15日に最終的に完成した。それから、11月19日にマナー・スタジオを去るまで、我々は、ヒューと一緒に、編集をし、様々な曲順を試してみることに三日間を費やした。非常に生産的な六週間であった。そうして思うのだが、その六週間は我々が共に過ごした時間の中で最も幸福な時ではなかったろうか。1982年1月29日、「センシズ・ワーキング・オーバータイム」が全英ヒット40に入り、BBCラジオ1の放送リストに挙げられ、我々は、再度『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演した。それは、2月にアルバムが発売されるのに、ちょうど合っていたのだ。踏み車が、また、地面に下ろされ回り出したのだった。














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2017年07月15日

『 English Settlement 』2016年版 コリン・モールディングのノート

 Ape house から2016年にリリースされた、180gビニール盤ボックス・セット『 English Settlement 』に付けられた、ブックレットに載せられた、コリン・モールディングのノート:

 僕は覚えているんだ、マナーでの霧深い夜、紅葉に彩られていたマナー、夜通しの篝火が時折弾ける音、長いテーブルに載ったふんだんなご馳走、暖炉で唸り続ける燃える薪、のこと。レコーディングは、こうした、一年のうちの「褐色」の時期に行われたの。だから、アルバムのインナースリーブはよく合っているよね。何もかもがセピア色、紅茶の染みが着いた感じだもの、古いお屋敷で羽根ペンか何かで書かれた様なの。ひとつの雰囲気にまとまっているんだ。 

 僕は覚えてないんだ、レコーディングがどう進められたかはほとんど、ただ、アルバムで演奏しようと新しいベースを買ったことは別、覚えてる、アイバニーズのフレットレス、「センシズ・ウォーキング・オーバータイム」で聴かれるのがそうなの。それは音はとても良かったのだけれど、数年後には、デイブの弟に売ってしまったのだけど、それって、僕、調音に自信がなかったから。エンジニアと共同プロデュースのヒューは、一緒に仕事をするのには、いつも楽しかったし、だから、サマーキャンプに行ってる様だったよ、ボーイスカウトの全然厳しくない隊長と一緒にね。とっても仲良かったし、ビリヤード室ではとってもプープー、ね、冗談団だったよ。 

 僕たちの「アコースティック・ピリオド」のはじまり。アンディは、その時までに、自分のアコースティック・ギターを買っていたし、順番でデイブと一緒に使ってたし、ふたりは、アコースティック・ギターにぞっこんだったんだね。僕の歌は、パストラルでなかったし、ほんと、アコースティックとは程遠かったの。意識して音像を創り上げるなんて、一度も考えたことなかったもの、僕は、自分の直感とそれに続いて起こるものに従って、みんなに披露する筈のものをパッと掴むだけなんだから。だからね、アルバムが、ある定められたコンセプトからゆらいでいる様な印象があるとすれば、それは、僕の所為なの、僕の失敗。それから、各曲は、長くなり始めていたね、歌のミドル部分には、長い「ワークアウト」があるよね。『ブラック・シー』の時には、それでも、シングルが中心だったの。でも、この時には、僕は思うのだけど、さっと一振りして当たり散らすって言う時期に僕たちは入っていたんだ、それで、何でも使える様に、パレットは開けたままになってたの。
[ ワークアウト:たぶん、ミドルの長いインストルメンタルを、指の練習と言っているのだと。 ] 

 僕は覚えているんだ、アルバムに収める歌をある独特の仕方の投票で決めたのだけど、関係者の誰もが、投票に際してはとっても外交官的駆け引きをしたの。ビニール盤の時代だったよ、だから、僕たちは、何もかもを二枚の盤に盛り込むことは出来なかったの、でも、あの時の僕たち、僕たちが録音したもの全部がもう燦然と輝くものだって思ってて、しっかりと己惚れていたの。レコード会社は、二枚組のアルバムと言う企画は、死地に陥ると思ってて、まあ、それは尤ものこと。それで、「センシズ」のB面の二曲と取り替えられたかもしれないすれすれの曲も何曲かあったのだと、僕は覚えてるけど、どうだったか知ら。そんなにいっぱいレコーディングしたからと言うのが一つの理由、アルバムを作るのにとってもお金が掛かったと言うのが一つの理由で、何とか守ろうと駆け引きがあったの。    

 アルバムはとっても多彩、それで、どう言う訳だか、たくさんの曲を集めて吊るして置いて、それが収められたのだけど、感度は高まっているんだよね。僕たちが受けた影響は何なのか、はっきりとはしてないの。僕たちは、みんな、ビートルズの大ファンだったよ、それにずっとそうだったのだけど、でも、っと、あちこちにちょっとだけスカが入り込んでいるのは別にして、心酔し切ってビートルズって叫んでるところなんかないよ、僕たちが影響を受けたものって、どれもみんな、ちょっとした神秘なんだね。  

 母国ではそれまでチャートで目に付く様な成功を得てなかったから、この時が、連合王国での成功の頂点だったのだ、と考えている人もいるよね。このアルバムの後にも、僕たちは偉業を成し遂げているんだけれど、母国では、それは価値あることって看做されなかったの。たぶん、僕たちの「幸運へ通じる窓」は通り過ぎてたの。たぶん、僕たちは、僕たちへの「歓待」を使い潰してたんだ。この頃、どちらかと言えば、「たくさん」、テレビ番組の『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出てたんだ、でも、たぶん、みんな、「ええ、やだあ! もうこいつらいらない!」って、思ってたんだろうね。で、家財道具をまとめてどこかに行こうか、だったの。「飢餓時代」が始まる前に、英国放送協会本部に最後の旗を揚げたの。     

 シングルについては、僕は思うんだけれど、血の汗流してものにしたのでなくて、物陰に捨てられて、隠れているようなのが、ヒット曲になることが、よくよくあるよね。それで、「センシズ」も思いもしなかったヒットになったんだ。とっても見事な歌。いろんな楽想が一緒になった、ロック組曲の様だね。「ボヘミアン・ラプソディ」のタイプ。成功するなんて、とっても驚いたの。この歌が、僕たちを聴いたことのない人たちに、アルバムを買わせてくれたのは、疑い様はないの。たぶん、この歌がアルバムに入っていたから、僕は、母さんに『イングリッシュ・セトルメント』を買って上げたんだ、気に入るだろうと思ったの。 

 僕はほんとに驚くんだ、あの頃の僕たち、元気だったよね。僕は過敏で直ぐにピクってなって、エネルギーが今にも爆発しそうだったの、で、楽しみがたくさんあって嬉しくて溌剌としてた。僕が歌ったそんな感情は、今はもう、僕の中では死んでしまっている、その感情って、まるで、火星から来てたみたいだから。年月が経てば、人は変わるものだし、自分が書いた作品がどこから発想したのかさえ分からなくなるし、こんなに離れてしまっては、何も書けないものだよ。僕たちが、こうした尋常でない思考回路を持ってたのは、ほんの短い間だったよ、でも、それは永遠にあるんだよね、これが、時間の中に刺し止められた僕たち自身なんだね。   


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2017年05月11日

White Horse

 『 English Settlement 』のスリーブ・ジャケットのアート・ワークは、ホワイト・ホースだけど。 
 実際白い線で描かれた馬だから、白い馬、だとしか思って来なかったのだけど。white horse には、「砕ける波がしら, 白波」の意味もあって。ホワイト・ホース、幾つも連なる丘の上にあるのだし、ある意味、波頭でもあるんだ、と思って。そう思うと、前作の『 Black Sea 』にも繋がったりして、、、
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2017年04月28日

ベルナール、パートリッジ対談「 Snowman 」

 アンディ・パートリッジとトッド・ベルナール Todd Bernhardt さんの対談、「 Snowman 」について。
 2006年11月6日にMySpace に公開のもの。MySpace にはもうありません。今は、チョークヒルのアーカイブにあります。  
Chalkhills: XTCFans: Andy's Take: "Snowman"

書籍『 Complicated Game 』には採られていません。   

ベルナール「どのようにして、「 Snowman 」を作られたのですか?」
パートリッジ「この歌へのインスピレーションは、エバーハルト・ウェーバー Eberhard Weber のアルバム『 Fluid Rustle 』の中の一曲でした。その曲には、途中にマンドリンが入っているのです。あるパターンがマンドリンで繰り返されます。そのマンドリンの響が始まった所で、私は、「ああ、この音は冬っぽいな、」と思ったのです。そして、それをギターでなぞって見たのです。それでですね、その曲をしっかり理解する前に、私は、一つの歌を吐き出してしまったわけですね。ゲエエエって、出て来たのですよ。( 笑う ) まあ、この曲は、ちょっと、マンドリン的なわけですね。「 Snowman 」の元々の発想はそう言うことなのです。ジャズのレコードにあるものに合わせようとして、結局、全く違うものが出て来たと言う訳なのです。」 
[ パートリッジの言っているのは、エバーハルト・ウェーバー が1979年に ECM から発表した『 Fluid Rustle 』の冒頭の曲の「 Quiet Departures 」だと思われる。この曲の開始から10分のあたりと、エンディングに、バラライカの繰り返しのパターンがある。パートリッジはマンドリンと言っているけれど。バラライカは、ビル・フリューゼルの演奏。Fluid Rustle - Wikipedia
https://www.youtube.com/watch?v=UQ2biDZkM_M ]
ベルナール「歌詞の面では、貴方は拒絶されることを歌った歌がいくつかありますが、その一つですね。」
パートリッジ「もう一つの拒絶の歌ですか、そうね。子供の時、「 Wninter Winterland 」を聴いたことがありますよ。その歌詞に、「 He'll say, ' Are you married?, we'll say ' No man' 」と言う行があるのです。それで、今思うのですが、「 the snowman / no man 」と言う韻を、私は、そこから吸収したのでしょう。他に、子供の時に頭に浮かんだ韻の思い付きがあります。「 Listening to snow tunes / show tunes on the radio 」です。フロイド的言い間違いですよ。」 
[ パートリッジ ( あるいは、ベルナールさんの書き間違いか? ) は、「 Wninter Winterland 」と言っているけれど、「 Winter Wonderland 」の間違い。Winter Wonderland - Wikipedia あるいは、この間違いも含めて、Freudian slip フロイド的間違いと言っているのか? ]
ベルナール「( 笑い転げる ) ところで、チェンバースさんは、この曲では、ロート・トムを使っているのですよね? [ wikipedia にも、使用者のリストに、テリー・チェンバースの名前が挙げられている。Rototom - Wikipedia ]」
パートリッジ「ええ。テリーは、自分でロート・トムを買ったのですよ。それはですね、私が、「僕はね、テリー、レゲエのレコードがものすごく好きなんだ。小さな「甲高い音 tang」がするじゃない、あれが好いよね。あれは、スネアか知らん? 僕にはよく分からないんだけれど。」と、うるさい程テリーに言っていたからなのです。それで、私たちが、「 Wait 'till Your Boat Down 」のレコーディング・セッションをした時にですが、スタジオには、ロート・トムのセットが備えてあったのです。テリーは、それを打って見ました。すると叫んだのです。「この音だ、この音だよ! アンディ、これがあの音だ!」 私は本当に興奮しました。それで、「君はこれを絶対に買うべきだ。」と言ったのです。そうして、レゲエのレコードで聴かれるものを真剣に模倣したのです。あの投げた石が水面を跳ねる様なアクセントのリズムをです。レゲエでは、ドラムのサイドをスティックで叩いて正確なタイムを取ります、そして、あの「甲高い音 tang」が入るのです。でも、テリーは、彼独自の方法があって、独創的なのです。彼は、新しい音に対して、拒むことがないのです。積極的に取り入れるのです。例えばですね、テリーは、軍楽隊のパレード用の太鼓の音が好きでした。それは、ポピュラー音楽で普通に使うスネアドラムの4倍の深さがあります。でも、彼は自分でそれを買って、スタジオに持ち込んで演奏しましたよ。あるいは、ステュワート・コープランドの可聴低音のバス・ドラムが好きでした。それで、ステュワートは、「あれは、スナイパー Snyper だ。」とテリーに教えたのです。」
ベルナール「ああ、それで、スナイパーを使い始めたのですね。」
パートリッジ「ええ。でも、もちろん、私たちは、それを色々試してみて、もっと面白く使う方法を見つけましたよ。「 Love at First Sight 」で、スネアを撓めた様な音が聴かれるでしょう。それに、笛の様な音も見つけました。テリーは、それを、「 Living Through Another Cuba 」で使っています。ミサイルの様な音にしたのです。」
ベルナール「それで、チェンバースさんは、この曲「 Snowman 」では、バス・ドラムにスナイパーを使っています。」
パートリッジ「ええ、そうです。」
ベルナール「一般的ではないドラムのパターンです。これは、彼が考えだしたものなのですか? それとも、貴方が指示したのですか?」
パートリッジ「大抵は、二人一緒に、ドラムのパターンに取り組んでいました。実際、レコーディングでスタジオに入った時、私とテリーの二人だけになることが、屢々だったのです。と言うのも、テリーが、他のメンバーを追い出すのですから。「アンディと俺で録音したいんだ。他の奴は出て行ってくれ。」と言う訳です。それで、私たち二人は、しっかり噛み合って、最高の演奏が出来るのです。そうして、二人だけで演奏して、一緒に仕上げたのです。私は、自分のギターパターンをテリーに合わせていました、そして、彼が残した間に、嵌め込むことが、よくありました。その反対もありました。[ この部分、原文は、 I tailored my guitar patterns to funk into the holes that he left, 「 funk 」の意味が分かりません。 ]  
 二人は、座って考えたものです。「テリー、こうやって見ないか、僕がこのパターンを弾く、その間に君が音を入れるんだ、オフビートで出来る?」とか、「ここに、スタッカートを入れられるかい? でなければ、ここにキックを入れるとか、で、僕がここにコードを割り込ませるから。」とか言っていたのです。つまりですね、呼応は、ベース・ギターとドラムズの間だけにあるのではないのですよ。テリーの場合は、リズム・ギターとの間に、それ以上の呼応があるのです。」
ベルナール「貴方は、今、ギター・パートから始めたと言われたのですが、ベース・ギターのパートは、後からだったのですか? と言うのはですね、この歌では、ベースは、重要な基盤になっていますから。」
パートリッジ「覚えていません。コリンがこの曲にフレットレス・ベース・ギターを使ったのは分かってますが。その楽器の特色を上手く使おうとしていたのだろうと思います。テープが残っています。でもそれは、デモ・テープと言える前の状態のものです。ホーム・レコーディングとか言えるものではないです、まだ多重録音が出来ない時のテープなのですから。そこには、リハーサル・ルームに腰を据えて、良いと思えるまで、色々と試しているものが録音されています。」
ベルナール「グレゴリーさんは何をしているのですか? 12弦ギターですよね。」
パートリッジ「ええ、デイブが12弦ギターを弾いています。それに、イントロとアウトロのピアノも。ギターで、途切れずにアルペジオを弾いていて、それがこの歌のリズムを作っているのです。この歌が持つ、非常にリズミカルな感触は、デイブが原因なのです。そうですね、実は、「 Snowman 」には、デイブのお気に入りのカプレットがあるのです。それは、「 People will always be tempted to wipe their feet / On anything with welcome written on it. 」です。ある日、デイブはこう言ったのです。( デイブを真似て、 ) 「パーティ、これは君がこれまで書いた中で、最高の歌詞だよ。」」
ベルナール「ここで、言って置かなければなりません。私が貴方たち XTC を初めて知って、このアルバムを聴いた時ですが、第2面にした時にです、その面には、「 No Thugs in This House 」「 Yacht Dance 」「 Aii of Sudden 」の三曲が入っていました。[ ベルナールさんが XTC を知ったのは、『 Mummer 』発表当時だから、初めて聴いた『 English Settlement 』は、1983年のアメリカ・カナダ版の1枚アルバムでなく、オリジナルと同じ、2枚組のものだと思われる。 ] その三曲がそれぞれ違った範疇の曲で、私はとても衝撃を受けたのです。それで、「この人たちは、一体何者なんだ?」と思ったのです。もちろん、もちろん、貴方たちなのですけれど。全部が貴方が書いた曲なのですから。」
パートリッジ「それは、私たちがそれぞれ別のタイプの曲を演奏出来る、腕の良いミュージシャンである、と言うことではないですね。私たちは、各曲が本来聴こえるべき形態になるように取り組んだ、と言うことなのです。」
ベルナール「では、貴方たちの音楽の才能について、伺いたいです。」
パートリッジ「ふうん。私たちは、秀でた音楽家ではないですよ。まあなんとか及第点、と言う程度だと思います。一つの目標に、みんなが一緒になって引っ張っていた、と言うだけなのでしょう。私の言いたいことがお分かりになりますか?」
ベルナール「持ち寄ったそれぞれの要素に、貴方たちが成し得る最善のことをした、と言うことですね。」
パートリッジ「そうです。何かの仕掛けは、正しく設置しないと、作動しません。音楽の仕組みも同様です。それぞれの歌には、それぞれの音楽的な仕組みがあるのです。そのどの仕組みについても同様ですよ。」
ベルナール「ですが、同時に、XTC は、ミュージシャンの為のバンドでもあるのです。XTC がミュージシャンの為のバンドであるのは、ミュージシャンが貴方たちの周りに集まることから分かります。ミュージシャンは、貴方たちがしようとしていることを理解しています。それに、よくある音楽の才人たちよりも、もっと、才気に溢れていることを分かっているのです。それに…、」
パートリッジ「( 笑う ) まずは、簡単な構造から始めるのですよ。それから、オーケストレーションするのです。それで、その音楽の構造がリブレットに合ってなければ、オペラ作品にはなりませんよ。歌の中の登場人物が言う筈の台詞に含まれている感情に、音楽の構造が合っていないと、不快な音楽になってしまいます。私たちは、構造を正しくしようと努めるのです。そうすると、歌はそれぞれ違ったものになって行くのです。私は、そう考えています。」  

終り   

 

 対談は、短め。最初の頃のものなので、短かったのかも知れないし、抄記されているのかも知れない。  



追記: 
予約投稿して置いて、表示されてから読んで、幾つかの間違い ( 綴り間違いとか ) を訂正しました。 
誤訳、疑問点があれば、ご指摘下さい、助かります。
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2017年04月18日

ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」11

ベルナール「貴方がそのように仰るのには、驚きます、興味深いことです。と言うのはですね、歌詞を私が仔細に調べていて、私は、必ず、底流にある同じものに気づくのですが、もちろん、貴方はそれを意図してはないのでしょうけれど、それは何かと言いますと、貴方は悲嘆に暮れて、「もし諸君が不注意にしていれば、起こるだろうことなのだ、これは。」と言っている、と言うことなのです。ある種の予言なのです。破滅に向かっている、と言う予言ですね。それですから、今のお言葉にはとても驚きます。」
パートリッジ「ふうん。破滅は、たぶん、テクノロジーで引き起こされるのでしょうね。私たちは、結局、原始状態になるのでしょうね。( くすくす笑う ) でも、それは、私たちが望むものではないですね。」 
ベルナール「それでは、そう言うことも、やはり、含意させているのですか。」
パートリッジ「ええ、その通りです。破滅は、この路を辿ればありますよ。何もかもがあまりに速くなっていますからね。もう少しで、私たちは、資源を使い果たすところですよ。あまりに速過ぎますし、あまりに騒々し過ぎますし、あまりに多過ぎるのです。私たちは、何もかもを消耗しているのです。そして、役にも立たないがらくたで、自分たち自身をいっぱいいっぱいにしているのです。そうですね、私は、ある一面では、浪漫主義者なのでしょう。それで、「原始の楽園に戻れば素敵ではないか知ら?」と自問するのですよ。そうです、不幸にも、実際に原始状態へ戻ろうとしているのです、でも、それは、正しい理由からではないのです。 
 アフリカがワンダーランドであると、言おうとしているのではないのです。アフリカも、その他の地域と同様に、堕落していますし、暴力の横行している所だと言うのは確かですから。」 
ベルナール「本当に素晴らしい、現代の住宅設備もありますよ。私は、上水道が好きです。」
パートリッジ「( 笑う ) 本当にそうですね。 
 ただですね、この歌は、ゆっくりしたいと主張しているだけだったのだと、今は、思います。ツアーに疲れて来ていたことからの自然な結果だったのだとも思います。私は、安静にしていたかったのです。プラグを抜いてしまいたかったのですよ。 
 その様な様々なことが織り合わさっているのです。前に言った様に、私は、地理上のアフリカに、幻想を抱いているのではないのです。そうではなくて、簡素な生活に戻れたら好いのに、と言う感傷なのです。」 
ベルナール「私が好きな行は、「 shake your bag of bones 」と言う所です。シャレですね。」
パートリッジ「ああ、あれはダンスですよ。」 
ベルナール「身体の婉曲表現です。それに、呪い師が持ってた、魔除けでもあります。」
パートリッジ「そうです。シャーマンとか、呪医が持っていたと考えられている、魔力のある骨の入った袋です。それで、「さあ、これと一緒に踊ろう」とも言っているのです。」   





おわり、 
誤訳、疑問点をしてくして下さると、助かります。 



ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」1: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」2: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」3: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」4: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」5: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」6: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」7: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」8: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」9: ノエルかえる不恵留 
ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」10: ノエルかえる不恵留
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2017年04月13日

ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」10

ベルナール「では、歌詞について話して下さい。私は、「ラップ・パート」について伺いたいのです。ここで、貴方がされていることは、「 Melt the Guns 」と似ています。それはつまり、このアルバムを製作した頃に、何かの影響があったのでしょうか?」
パートリッジ「そうですねえ、そんな風に考えたことはありませんでした。でも、貴方の言う通りですね、私には分からなかったのですけれど。デイブが、初期のラップのレコードを二三枚持っていましたよ、たぶん、そうでした、彼はとても気に入っていましたね。ステージのサウンド・チェックの時にプレイヤーに掛けていました。スタジオでも再生していましたよ。そのうちの一つが「 Rapper's Deligt 」です[ The Sugarhill Gang シュガーヒル・ギャングが1979年にリリースしたシングル。Rapper's Delight - Wikipedia https://www.youtube.com/watch?v=mcCK99wHrk0]。1970年代の終りに出ていたと、思うのですけれど。それを、十分過ぎる程に聴かされていたのでしょうね。それで、似たことをしたのかもしれません。」 
ベルナール「ヴォーカルに於いては、とてもリズミカルになると言う、貴方の元からの傾向がありますから、歌詞の幾つかは、その様にリズミカルな働きを持つのでしょう。」
パートリッジ「ですけれど、「 It's Nearly Africa 」では、まったくの「喋り」でもないのです。でしょう? ヴォーカル・パートで、ちゃんと音程がありますから。どちらかと言うと、ラップと言うよりも、スキャットなのでしょう。でも、これをスキャットだと捉えないで下さい。スキャットをレコーディングさせて欲しいと思っていたのです。本当に、そうすれば良かったのですけれど。私が、申し分無く出来ることがあるとすれば、それはスキャットなのですから。けれども、レコードで、スキャットしたことは、一度もなかったのです。」 
ベルナール「そうですか。でも、私はあるEPを持っていますけれど。それには、ステージで「 Sissor Man 」を引き伸したジャムを演奏しているものが収録されています。「 Cut It out 」と別のタイトルが付けられていますけれど。そこで、貴方はスキャットをたくさんしている様に思えますけれど、どうなのでしょう?」
パートリッジ「そうですね、確かに。あれは、スキャットと言うよりは、パーカッション的で、「自分で自分にダブをかけている、セルフ・ダブ」ようなものです。「 All Along the Watchtower 」もそうです。私は、あれをスキャットとは呼ぼうとは思いませんよ。そうですね、口真似管楽器群でしょうかね。ヒューマン・ホーンですよ。」 
ベルナール「分かりました。歌詞について話して下さい。何を言おうとしているのですか?」
パートリッジ「( 笑う ) ( 正確なニューヨーク・アクセントで ) 「ったい、何の歌なんで、アンデ、まえ、ったく、っかしいぞ。」 
 アフリカについての歌ではありません。失われた無垢を取り戻すことを言っているのです。不可能な夢なのでしょうか? エデンの園ですよ。かつて、楽園から堕ちたことを言っているのです。次のアルバムのタイトルになるところでした、実際には、『 Mummer 』になったのですけれど。兎も角ですね、もうそこへは戻れないのです。でも、戻れるとすれば、素晴らしいでしょう? 人間存在と言うものは、エデンの園に居ることを夢見ているものだ、と言っているのです。純真を夢見ているのです、無垢を夢見ているのです、子宮の中にいることを夢見ているのです、黄金時代に居ることを夢見ているのです。[ 古代ギリシャ詩人ヘシオドスの言う、古代ギリシャの神話の中での、黄金時代のこと。Golden Age - Wikipedia ] 
 これは、夢物語りではありません。私たちの誰もが経験したことなのです。ただ、多くの人は、誤解しているのです。楽園は、一個の人間存在の中にだけあるのです。善に満ち溢れた暴力的なことが全くない社会が、まあ、兎も角その様な理想的な社会が、嘗てあったのだとは、私は考えていません。 
 私が言っているのは、原初的な状態に戻っても、ちっとも良くはないだろうと、言うことです。そうですね、「コンセントの無い未来の世界」なのですよ。電気を必要としない世界ですよ、スピードもないのです、テレビもないのですよ。」 
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2017年04月08日

ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」9

ベルナール「( 笑い転げる ) では、もう少し、貴方がされたパートについて話して下さい。ギターのパートについては、先にお話し下さいました。今度は、サックスのスウィング風のソロについて話して下さい。」
パートリッジ「( 笑う ) ああ、なんて馬鹿だったのでしょうね、私は。チャーリー・パーカーになろうとしてたのです、この私が。「よし、サクソホーンを買ったなら、」、当時、私は、何かでお金を得ていたのです、たぶん、何かを売ったのでしょう、「一週間で、チャーリー・パーカーになれるさ、多くても二週間あれば十分だろうし、」と思っていたのです。 
 まったくですよ、一月、もう一月、さらに一月経って、私が出来たことと言えば、ラゴスにいる盛りのついたガチョウが威嚇するときの様な音だけだったのです。( 笑う )」 
[ ラゴス Lagos : ナイジェリアの都市、交通渋滞が世界一だと知られている。 ] 
ベルナール「( 笑い転げる ) 成る程、それで、この歌は、「 It's Nearly Africa 」と言う題名になったのですね。悪くはないです。」
パートリッジ「「 It's Nearly Quackrifa! 」、こうすれば良かったですね。」 
ベルナール「でもですね、この「ラゴスの交通渋滞」の様な音、雰囲気を、この歌の中に、意図的に入れようとしたのではないのですか?」
パートリッジ「( 溜息を吐く ) ええ、そうだと思いますよ。私がこれまで演奏したことのある、惨めなアルト・サックスの間奏の一つですね。一番の出来は、雁の鳴き声に似た「 Funk Pop a Roll 」でのブラス部分ですね。あれが、私が吹いた最高のものですよ。でも、何かを分からせることは出来たのだと思います。あの時、「流れる様なメロディは吹けない。でも、正確なリズムで、鳴らすことは出来る。だから、2トラック程やらせて欲しい」と思ったのです。それで、私は、二つのパートを吹いたのです。オフビートと普通のと。それが、リズム上で押し引きする良い感じのものに出来上がったのです。」 
ベルナール「 この歌で、貴方が録音したトラックは幾つだったか、覚えていますか?」
パートリッジ「それは覚えていません。、、、少なくとも、二つのトラックに録音しましたね。たぶん、もっと多くでしょうけれど。「ウー、ウー」と言う声も重ね録りしてますからね。ガチョウの大リズム隊ですね。( くすくす笑う ) 私が何かの精製機の管の様なものを口に入れて悪戦苦闘しているのを、バンドの他のメンバーは、大口開けて大笑いしていたのに違いありません。」 
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2017年04月04日

ベルナール、パートリッジ対談「 It's Nearly Africa 」8

ベルナール「ベースのパートについても話して下さい。モールディングさんに、貴方は、何か指示したのですか? それとも、モールディングさんがお一人で考えられたのですか?」
パートリッジ「コリンは、いつも、自分一人で考えていましたよ、そう思いますけれど。」 
ベルナール「この歌の、貴方が作られたデモ・テープはないのですか?」
パートリッジ「知る限りないですね。でも、どうなのかは、私には言えません。デイブかコリンかが、遣って来て、「ほら、僕は、この歌のリハーサルの時のカセットを持ってるよ。」と言うかもしれませんものね。」 
ベルナール「ですけれど、貴方が作ったデモ・テープをバンドのリハーサルに持ち込んだのではないのですね?」
パートリッジ「ああ、それは無いですね。あの頃、ともかくデモ・テープと言えるものは、ほんの僅かしかありませんでした。大抵は、私は、ギターを持ってバンドに歌って聴かせてたのです。それで、足で床を鳴らしながら、「曲はこう言う風になる。」と言って聴かせたのです。一番良いものでも、当時のデモ・テープは、私自身と、ハモンド・オルガンに付いているドラム・ボックスだけを録音したものでしたよ、それでも、贅沢なデモ・テープでした。小さなカセット・テープですよ。ラジカセを回して置いて、ドラム・ボックスに合わせて弾き語りをして録るのです。それが、当時の、贅沢なマルチ・トラックのデモ・テープと言うわけです。」 
ベルナール「スライド奏法とか、その他のこともですけれど、この歌で、モールディングさんがされていることは、本当に素晴らしいです。」
パートリッジ「コリンは、この曲では、とてもメロディアスですね。特に、コーラス部分で、旋律性が発揮されています。( ベースのパートを口で真似る。 ) 貴方が、これをどう表現しようとしているのかは分かりませんけれど、私でしたら、ビング・クロスビー風にしますね。バ・バ・バ、バ・バ・バ、ボン!って。」 

ビング・クロスビー - Wikipedia
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2017年04月02日

English Settlement Uffington Duck

 アルバム『 English Settlement 』は、そのアートワークを、アメリカの配給会社に、「アヒルか?」と言われたそうだけれど。 
 アフィングトンの丘を調査したら、実際に、アヒルの地上絵もあったらしいことが、分かったのだそう。 

 XTC、『 English Settlement 』を新しいセットで出す時には、当時、スタジオで録音されて、そのままになっているものを、「 The Duck 」にして、本編は「 The White Horse 」で、『 English Settlement / The White Horse and The Duck 』にすれば好いのに。CD二枚組。LPだと4枚組。「 The Duck 」には、新しく発見されたアヒルの地上絵を使って、アートワークを作って。  

Second chalk figure discovered near Uffington White Horse | National Trust  


 でも、アヒルかな? 白鳥ではないのかな? 

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